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生きた精神、死んだ文字

言葉に出来ない「曖昧なもの」に宿るエッセンスとその面白さについて、今年に入って2つの文章を書いた。

ありがたいことにいくつかの感想をもらって、曖昧なもの、言葉にできないものへの同じ想いを持っている方がいることを嬉しく思った。(読んでもらえること、そして感想をもらえるのはすごく嬉しい。ありがとうございます!)

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この「曖昧なもの」について、ある哲学者の言葉を参考に、違った角度からもう少し考えてみたい。

その哲学者とはハンナ・アーレント。
彼女は『人間の条件』の中でこう書いている。

そのとき活動と言論と思考の生きた活動力は、それぞれの過程が終わると同時にリアリティを失い、まるで存在しなかったかのように消滅するだろう。活動と言論と思考がとにかく世界に残るために経なければならぬ物化は、ある意味で、支払わなければならぬ代償である。なぜならその場合、「生きた精神」から生まれ、実際束の間は「生きた精神」として存在した何物かの代わりに、いつも「死んだ文字」がそれに取って代わるからである。(『人間の条件』ちくま学芸文庫、p.150)

ここでアーレントの言っている「物化」とは、考えたことや話したことなどが「詩の言葉、書かれたページや印刷された本、絵画や彫刻、あらゆる種類の記録、文書、記念碑など」(同p.149)の物理的な物になることを指している。そしてその「物化」は「世界に残るための代償」であり、物化により「生きた精神」は「死んだ文字」に代わる。

思考や行動は言葉にして書き残すと「死んでしまう」のだ。この「死んでしまう」ものこそ、僕が先の2つの文章で書いた「曖昧なもの」だと言えるのではないか。

アーレントは書き残せない曖昧なものの大切さをどこまでも理解していた。だからこそ、書き残された言葉を「死んだ文字」と呼んだのだ。

しかし、それでもなおアーレントは物化の必要性を説く。

人間世界のリアリティと信頼性は、なによりもまず、私たちが、物によって囲まれているという事実に依存している。なぜなら、この物というのは、それを生産する活動力よりも永続的であり、潜在的にはその物の作者の生命よりもはるかに永続的だからである。人間生活は、それが世界建設である限り、たえざる物化の過程に従っている。(同p.150)

たしかに物化により思考は「死んだ文字」になる。でも、もし物化しなければ、それは世界のどこにも残らず、消滅するだけだ。その人が生きている間は「生きた精神」を様々な手段で伝えつづけることもできるかもしれない。でも、人間はいずれ死ぬ。そしてそのあとも世界は続く。「世界」に残すため(世界建設のため)には代償を支払ってでも、たとえ「死んだ文字」であっとしても、物化しておくしかない。

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僕は、「5%に宿るもの」で、コーヒー焙煎にはどうしても言語化できない曖昧なものがあると書いた。そして、「君にコンセプトなんかいらない」では、自分のワクワクを誰かに伝えるために無理に言語化してしまわないほうが面白いものが生まれる、と書いた。

しかし、アーレントの教えてくれることは、「曖昧なもの」は大切だし、それを捨てること(物化すること)は「死んだ文字」にすることだけれど、それでも人間は、過去の人々が作って、自分たちも手を加え、そして次の世代に繋いでいく「世界」に生きていて、他に生きる場所はない。そして、その世界は物化によってしか作れない、という事実だ。

ある意味悲観的で、ジレンマを抱えているけれど、それでも僕らは「曖昧なもの」を大切にしながら今の生を生き、残すべきものは「死んだ文字」としてでも残していくある種の妥協が必要なのではないか。

実はアーレントはその後の希望についても触れている。先ほどの引用からはしばらくページが進んだ箇所に次のようにある。

「生きた精神」を死状態(デッドネス)から救い出すことができるのは、死んだ文字が、それを進んで甦らせようとする一つの生命とふたたび接触するときだけである。もっとも、この死んだものの復活は、それもまたふたたび死ぬであろうという点ですべての生きものと共通しているけれども。(同p.266)

「死んだ文字」は復活させることができる。いつかまた死んでしまうのだとしても、甦らせようとする者がいる限り、復活は可能なのだ。

こうして書いている文章はある意味、妥協の産物なのかもしれない。ただ、そうだとしても、それは世界建設であると信じたい。そして、いつか誰かの手で復活することもありうるのだということを、僕は信じたい。

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