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選択される学校(7)〜不登校と学校〜

「街」と「村」のコミュニケーション

少し話が変わります。

狭いエレベーターの中で、二人で乗り合わせたとします。
スマホが手元になければ、あなたはどうしていますか?

今の時代、スマホがあればスマホを見ていると思います。
ところがスマホが手元になかった時、狭いエレベーターで10階くらいまで止まらないとして、知らない人と乗り合わせたら、どうしていますか?

だいたい、階数表示を見ていることが多いと思いませんか?笑
狭いエレベーター内で会話もなく、黙って乗っているのです。

また、少し話は変わります。

関西の方ならお分かりの方もいらっしゃるかもしれません。
阪急電鉄のホームのアナウンスで「・・・お困りの方がいらっしゃいましたら、お手伝いしましょうか?などのお声がけをお願いいたします。」というアナウンスを定期的に流しているのを、お聞きになったことがある方もいらっしゃると思います。

これはどうしてかわかりますか?

日本人は、見ず知らずの方が困っていても、声をかけにくいのです。知らない方に声をかけるのを非常に苦手にしているのです。

なぜなら、声をかけて、それを断られたら、それは自分が拒絶されたと感じるからなのです。お困りの方に声をかけて、「結構です!」と言われたら、それはその人が単純に「大丈夫だから良いですよ、ありがとうございます。」と言ったとしても、どこかで拒絶された感じを受けてしまうのです。

最近では、随分と変わってきたようにも思いますが、まだまだ、見ず知らずの方に声をかけることは、そのくらい苦手にしていることが、この阪急電鉄のアナウンスでもよくわかるのです。

日本人は、長い間、「村社会」で生きてきました。狭い世界で、みんな顔見知りで、知らない人がいないという前提で生きてきたのです。

良いとか悪いということではありません。そういう社会で生きてきたのです。

ですから、全く知らないことはない、ある程度わかってもらっている、という前提で話をしてきたのです。だから、非常に安心して話をすることができたのです。

濃い人間関係の中で、ある程度の理解をしてもらいながら、自分の立ち位置みたいなものも踏まえて、コミュニケーションを取ることをしてきたのです。

これを仮に「村のコミュニケーション」と呼ぶことにします。
これは、農耕民族として生きてきた日本人にとっては、とても楽で安心できるコミュニケーションスタイルだったのです。

それに対して、欧米でのコミュケーションは全く違います。例えば、アメリカだと基本的に知らないということが大前提です。ほぼ全員が移民と言っても良いくらいの国ですから、知ってる人なんていないのです。

ですから、自分からコミュニケーションをはからないと、意思疎通ができないのです。さっきのエレベーターの話であれば、アメリカ人なら、エレベータの中で、簡単なコミュケーションをしているのです。

ホームでお困りの方を見つけて声をかけたとして、断られても、アメリカ人だと、「そう、じゃあ気をつけてね。今日もいい日になると良いね。」「あなたもね」というような会話をして終わりなんです。誰も拒絶されたと思わないのです。

スターバックスに行って、にこやかに話しかけられて、戸惑う方もいらっしゃると思います。あれはスターバックスが典型的なアメリカのコミュニケーションスタイルで接客しているからなのです。

こうやって、見ず知らずの方に声をかけて、人間関係などなく、その時だけの関わりであってもコミュニケーションをとることを「街のコミュニケーション」と呼ぶことにします。

日本は、大東亜戦争後、欧米化が進み、核家族になり、濃い人間関係を捨て去り、欧米のような関わりのうすい人間関係が中心になってきました。

しつこいようですが、良い悪いではありません。そうしてきたのです。

ところが、社会全体で濃い人間関係を捨て去り、できるだけコミュニケーションをするような形を取ろうとする「街のコミュニケーション」を求めてきたのですが、実際は、日本人は急にはそんなには変われないのです。

「空気が読めない」とよく言いますが、空気を読むためには、濃い人間関係がなければ読みようがないのです。読めなくて当たり前なのです。そんな人間関係をしていないのですから。

空気を読めるのは「村のコミュニケーション」ができている場合だけで、「街のコミュニケーション」では空気など読まないのです。そのままストレートに表現して伝えるのです。

今の子ども達はSNSを当たり前のように使っています。でも、そこで、絵文字を多用するのも「相手がどう受け取ったかわからないから、相手の機嫌を損ねたり、相手に嫌がれたりしないために」絵文字を多用するのです。

LINEのスタンプなどは典型だと思うのです。

なぜか。それはSNSが「街のコミュニケーション」だからなんです。知っている人であっても、顔も見えず、その時何をしているかもわからない時に、コミュケーションをするのです。怒っているか笑っているか、機嫌がいいか悪いかもわかりません。

だから、SNSは「街のコミュニケーション」なのですが、それが、実は今の子ども達でもできないから、絵文字に頼ることになるのです。

家庭という小さな「村のコミュニケーション」しかできないのにも関わらず、「街のコミュニケーション」をしようとしているのが、今の日本人なのです。

地元の幼稚園・保育所、地元の小学校で10年近くかけて、やっと「村のコミュニケーション」ができるようになってきたところで、違う小学校3つくらいが一つになって中学校ができると、「村のコミュニケーション」は通用しなくなるのです。

これは、たいへんな苦痛を生じるのです。なぜなら、ただでさえ、家以外で「村のコミュニケーション」で話せるようになるまでには長い時間がかかったのですから、急に知らない人と「街のコミュニケーション」で話すことは、相当な順応性が必要になるのです。

だから、中学1年生になると急に「不登校が多くなる」のは、コミュニケーションをどうとっていいかわからなくなり、「不安」「恐怖」が出てくるからだと、私は考えています。

ある意味で、当然の反応だと思うのです。

そこにもう一つの問題の「3年後の入試」とそれに紐づいた「評価」という問題が出てくるのですから、中学生になる、ということは本当にたいへんなことなのです。

その「評価」については、また、お話ししたいと思います。



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