見出し画像

「ご飯粒を残すと目が潰れる」

先日、ご飯を食べ終わり食器などの洗い物を済ませようとキッチンへ向かった時、そういえば炊飯器のお釜がまだ洗えていないことを思い出した。そこで炊飯器を手に取り洗おうと思った時に感じた違和感について話したい。

僕は常日頃、食べ物を粗末にしないために注意を払っている。

出されたものは好き嫌いせず残さず食べるし、お米の一粒だって残さないようにしている。

何故このようなことに気をつけているかというと、小さい頃から母親や祖母に

「食べ物を粗末にするとバチが当たる」や「ご飯粒を残すと目が潰れる」

などと注意され続けていたからである。

これらの言葉は、今ここに自分が食べるため、食卓に並べられた様々な食べ物がここに来るまでの一連の流れへの感謝を自分の食べることを通じて伝えることの意味だと思われる。


だが、今まであまりにも食べる側に居たせいか、これから洗おうとしているお釜にはカピカピに固まったご飯粒が幾つも引っ付いていた。

そのことに僕は驚嘆した。

自分自身、食べ物を粗末にしないことを気に留めていたはずなのに立場が少し変わるだけでこんなにも意識が変化してしまうものなのかと。


その時から少し母達から言われた言葉、その中でも特に「ご飯粒を残すと目が潰れる」という言葉の意味について思考を巡らすことになった。

 小さい頃は何故、ご飯粒を残すという行為に対し、自分の体の一部である目が直接被害を被ることになるのだろうか、どのような因果関係があるのかということを疑問に思ったことがある。

 だが今こうして考えてみると、食事を残すことが食卓に並んだ生命やそれらを生産し僕たちの食卓にまで届けてくれた人たちや家族への感謝を忘れる行為なのだと一貫しているようだ。


 「バチが当たる」「目が潰れる」というそれぞれの言葉は食べ物を残す行為への注意や脅しの意味があるのかもしれない。

だが同時にこうも思う。
「バチが当たる」や「目が潰れる」は比喩でそれらが本当に起きる出来事だという脅しの意味ではなく、

日々の当たり前に感謝をすることを忘れてしまうこと、また直接目にしていない人たちの苦労に気付くことが出来なくなってしまうぞ

と。

そう言いたいのではないだろうか。

目が潰れていることを我々は「盲目」と言う。「恋は盲目」ということわざがあるように、「盲目」には物事に気付けない、大事なことが見えてないなどという意味合いも持ち合わせる。

 すると「ご飯粒を残すと目が潰れる」という言葉は、ご飯粒を残すという行為が

人の努力や頑張りなど直接は触れていないが巡り巡って僕の当たり前な日常の一部になっている多くの事柄。それらに気づくことが出来なくなり感謝ができなくなる第一歩

なのだと。

そう先人達は言いたかったのではないだろうか。

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?