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【試し読み】『ハンス・ヨナス 未来への責任』百年、千年先の子どもたちを思いやることは可能なのか

  グレタ・トゥンべリさんの活躍やSDGsの登場により、地球環境、そして「未来」の保護に関する議論が活発化しています。こうした潮流は恐らく正しく、あるべき姿なのでしょう。
 しかし、次のような反論が出たら、どうでしょう。「なぜ、一生会うことのない、百年、千年先の子どもたちを守らなければならないのか」。
 あるいは、「人間こそが環境悪化の原因。地球にとっては人類など滅んでしまったほうがいい」。
 こうした疑問に対し、はたして現状の環境保護運動は回答できるでしょうか。
 「WHY」が置き去りにされたまま「HOW」が盛り上がり、人によって環境保護への意識に乖離が生じているのではないでしょうか。
 本書は、ハンス・ヨナスの提唱した未来倫理学を丁寧に読み解くことで、「WHY」に一つの回答を試みるものです。
 その冒頭部分を公開いたします。ぜひお読みください。

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はじめに

 私たちは、まだ生まれていない未来の世代を脅かす力をもっている。
 環境破壊に伴う地球温暖化・気候変動は年々深刻化している。気温の上昇がこのままのペースで進んでいけば、海氷の融解によって海面水位の上昇が引き起こされるだけでなく、生態系が破壊され、莫大な人々の生活環境が失われる。いますぐにCO2排出量を削減できるかどうかが、100年後の人類の生きる世界を大きく左右する。
 生殖細胞へのゲノム編集は、まだ生まれていない子どもの身体をデザインすることを可能にした。しかし、その編集の結果は一世代に留まらず、その子どもの子どもへと、無限に継承されていく。ゲノムの構造はその多くが未解明であり、編集の結果として予期していない遺伝性疾患が現れる可能性がある。そしてそれは何世代ものちになって初めて出現するかも知れない。そのため生殖細胞へのゲノム編集は倫理的に問題視されている。
 原子力発電は高レベル放射性廃棄物を排出する。現在、その廃棄物の処分方法としてもっとも信頼されているのは、地層処分である。しかし、廃棄物の放射線量が、自然放射線レベルにまで低下するには、およそ10万年の歳月が必要になる。そうである以上、最終処分場は10万年間の保管に耐えるよう設計されていなければならない。もしも事故が起きて、数百年後、数千年後に放射性物質が漏出すれば、その時代に生きている人々に対して深刻な危害が生じることは避けられない。
 私たちは、まだ生まれていない未来の世代を脅かす力をもっている。そうである以上、現在世代は未来世代に対して責任を負っている。直観的にはそう思える。しかし、その未来世代は次の世代だけではない。それは数百年後、数千年後、数万年後に生まれてくる人々でもありえる。私たちが責任を負う未来世代は、私たちとは異なる価値観をもち、私たちとは異なる共同体に生き、そして私たちと決して出会わない存在なのである。
 未来世代は現在世代にとってまったくの他者である。私たちは、未来世代と議論を交わすことも、合意を形成することもできない。そうである以上、民主主義の手続きでは未来世代への責任を十分に説明できない。もちろん、合意が形成できないのだとしても、道徳的な配慮を基礎づけることはできる。たとえば基本的人権の尊重は相手の合意がなくても守られるべきだろう。しかし、存在していないものに権利は発生しないのだから、未来世代には尊重されるべき権利を認めることもできない。
 要するに未来世代への責任は、民主主義的な合意によっても、基本的人権の尊重によっても、説明できない。それでもその責任を説明するためには、どのように考えればよいのだろうか。
 こうした「未来倫理学(Zukunftsethik)」の問題をいち早く指摘し、それに対する解決策を模索した哲学者が、ハンス・ヨナス(Hans Jonas 1903―1993年)だった。
 エトムント・フッサールのもとで哲学の門を叩き、マルティン・ハイデガーおよびルドルフ・カール・ブルトマンの弟子であり、政治思想家のハンナ・アーレントの親友でもあったヨナスは、主著『責任という原理――科学技術文明のための倫理学の試み』(1979年。以下、『責任という原理』)において、テクノロジーの潜在的な危険性を指摘し、未来世代への責任を基礎づけるために新しい倫理学的原理を構想した。同書は、難解な内容にもかかわらず、革新的な理論として国際社会に衝撃を与えることになった。そしてその影響は、狭義の哲学研究の領域に留まらず、他分野の研究者や政策立案者にまで及んでおり、生命倫理・環境倫理・科学技術政策の文脈において、今日においても繰り返し参照されている。
 本書は、そうしたヨナスの思想を手がかりに、未来世代への、すなわち「やがて来る子どもたち」への責任のあり方を考察するものである。

テクノロジーと未来

 未来世代への責任は、人類が遠い未来の世代を脅かすことが可能になって初めて意識されるようなった問題である。言い換えるなら、人類にそうしたことが不可能であった時代には、この問いは意味をなさなかった。そしてその可能性を開いたものこそテクノロジーに他ならない。したがって未来世代への問いは、不可避的に、テクノロジーへの問いに先導される。
 テクノロジーとは何か。それは人間をどのように変えたのだろうか。
 この問題を考える上で参考になるのは、化学者のパウル・クルッツェンらによって提唱された「人新世(Anthropocene)」という概念である。これは、これまでもっとも新しい地質時代として考えられていた完新世から、人類の活動によって地球環境への影響が深刻化してきた近年を区別するものであり、そうした影響の指標として想定されているのは、工業化・都市化・戦争による地球温暖化や、自然に分解されることのない大量のコンクリートやプラスチックの堆積である。
 人新世という概念は人間と自然の関係に根本的な修正を迫るものである。それまで、地球環境は人類の活動から独立したシステムを有していると考えられてきた。人類がどのような活動を行おうと、地球環境はそれと無関係に循環しているのであり、その限りにおいて自然はいわば人類の営みを超えたものと見なされていた。むしろ、地球環境は人類の活動を制約し、限界づけるものとして機能していた。人間は、地球環境に許されることだけを行うことができ、その許容範囲を逸脱することはそもそも不可能だった。しかし人新世において、人類の活動は直接的に地球環境に影響を与え、自然を変えることができる、と見なされる。もはや自然は人間を超えたものではないし、人類の活動に対して一方的に限界を与えるものでもない。むしろ人間は自然に対して干渉し、自然のあり方を変え、自然はそれに対して脆弱な存在でさえもありえるのである。
 人間が自然を変える。そうした事態は、人間の外に広がる地球環境だけではなく、人間の内にある自然、すなわち肉体についても当てはまる。
 人工知能研究の世界的権威であるレイ・カーツワイルは、『シンギュラリティは近い』(2005年)のなかで、次のような独創的な未来予想を示した。テクノロジーの加速度的な進歩はやがて人類の不老不死を実現させるとともに、人間の脳をコンピューターによって正確にシミュレーションすることも可能になる。2045年にシンギュラリティ(技術的特異点)が起き、自律的に思考する機械が世界を支配するようになり、さらに2100年には人間の知能が数千億倍まで拡張される。
 死は人間が自分で設定したものではない。それは人間が自然から与えられている限界である。しかし、カーツワイルの予測によれば、人間はやがてこの限界を取り払ってしまうという。それは人間の内なる自然を作り変えること、すなわち自分自身を変えてしまうことを意味する。
 同様の予測を立てた思想家として、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリを挙げることもできよう。ハラリによれば、人類はこれまで歴史において常に飢饉・疫病・戦争によって悩まされ続けてきたが、近年、テクノロジーの進歩によってこれらの問題は克服可能になりつつある。むしろ現代においては、飢饉よりも肥満で死ぬ人の方が多く、また疫病よりも老化で、戦争よりも自殺で死ぬ人の方が多くなっている。そうであるとしたら、これから私たちがテクノロジーによって目指すことになるのは、こうした人間の自然性、すなわち肉体に由来する有限性そのものを撤廃することであり、それはテクノロジーによる「神性」の獲得に他ならない。ハラリはこうしたイデオロギーを、ラテン語で「神の人」を意味する「ホモ・デウス(Homo Deus)」と名づけている。
 テクノロジーは自然そのものを作り変え、そして人間自身をも作り変える。そのようにしてテクノロジーへの問いは、人間と自然の関係をめぐる問いへと私たちを導く。私たちは未来の人間たちに責任を負っているのかも知れない。しかしそのとき人間とは何を意味しているのだろうか。私たちが人間と呼んでいるのは誰なのだろうか。それはこの世界においてどのように存在し、そして自然とどう関係しているのだろうか。

「本当に人間らしい生き方の永続」

 このように考えていくとき、私たちが引き受けるべき未来世代への責任は、単に未来世代の存続への責任だけではなく、未来世代が何者であるか、どのように存在するのか、ということに対する責任でもある。こうした問いをめぐって、ヨナスは『責任という原理』のなかで次のような極めて簡潔な原則を示している。
 あなたの行為の影響が、地上における本当に人間らしい生き方の永続と両立するように、行為せよ。
 この原則にはヨナスの未来倫理学のすべてが集約されていると言っても過言ではない。本書はその全容を解明するために多くの議論を積み重ねることになる。しかし、一読して明らかであるのは、未来世代はただ「永続」するだけではなく、「本当に人間らしい生き方」で存在することが求められている、ということだ。人間は人間らしく存在しなければならない。それがヨナスの未来倫理学の基本原則である。
 しかし、この主張は厄介な問題を抱えることになる。すなわちそれは、一体誰が、どんな権利によって、「本当の人間らしさ」などというものを決めることができるのか、ということだ。
 もしも「本当の人間らしさ」なるものが、どのような時代にも妥当する(=超歴史的な)普遍的な真理としての人間らしさを指しているのだとしたら、そうしたものが成り立たないと考える地点から、現代の哲学は始まっている。すでにニーチェは、西洋において真理であると見なされていたキリスト教道徳が、結局のところ歴史的に生成したものに過ぎないことを指摘し、その普遍的な妥当性を批判していた。人間らしさ、道徳、価値観、そうしたものはいずれもその社会の置かれている歴史的・文化的・政治的な文脈のなかで立ち現れてくるのであり、また、そのなかでしか妥当性をもたない。それに対して、そうした歴史的文脈を超え、どの時代においても、どんな場所でも真理であると見なされた価値観は、その外部にある別の価値観を抑圧し、排除する暴力に転嫁する。それが近代の普遍主義(モダニズム)に対するポストモダニズムの抗議である。
 当然、ヨナスに同様の疑いの目が向けられることは避けられない。もしもヨナスが独断的に「本当の人間らしさ」を決定しているのだとしたら、それはその外部にある別の人間らしさを周縁的なものとして排除する暴力である。そうであるとしたら、ヨナスの未来倫理学は全体としてその説得力を失わざるをえない。それが価値多元的であることを前提とする現代社会において未来倫理学を考えるための条件である。実際、ハーバーマスはこうした視点からヨナスを保守論客として批判している。
 こうした疑問に応答するためには、ヨナスがそもそも人間をどのように捉えていたのか、ということが明らかにされなければならない。ヨナスは、人間とは何か、という漠然とした問いを、この世界における人間の地位はどのようなものか、また人間と動物の違いはどこにあるのか、という観点から探究し、その一連の思想を「哲学的人間学(philosophische Anthropologie)」と呼んでいる。
 こうした観点から本書は、ヨナスの哲学的人間学に注目し、これを経由することで、その未来倫理学の全貌を解明することを目指す。それが本書の目的である。 

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【著者プロフィール 】
戸谷 洋志(とや・ひろし)
1988 年生まれ。哲学専攻。関西外国語大学・准教授。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。単著に『Jポップで考える哲学――自分を問い直すための15曲』(講談社、2016年)、『ハンス・ヨナスを読む』(堀之内出版、2018年)、『原子力の哲学』(集英社、2020年)、共著に『棋士と哲学者――僕らの哲学的対話』(イーストプレス、2018年)、『漂泊のアーレント 戦場のヨナス――ふたりの二〇世紀 二つの旅路』(慶應義塾大学出版会、2020年)がある。第31回暁烏敏賞(2015年)、第41回エネルギーフォーラム賞優秀賞(2021年)受賞。

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