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母の語り(戦後〜現在)

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戦後、家族を養うため、自分の夢を実現するため、台湾人と一緒になり、家族や従業員のために尽くした母の語りをまとめました。
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#台湾人

文龍と台湾へ

文龍と台湾へ

愛媛で菊と出逢い、高知で事業を始めた文龍。
賭博から始めたが、商才に長けていた。

どうやればお金が増やせるか?友達とのネットワークから情報を得て、着実に土地を購入していった。

菊は
「お金ができたらすぐ土地になってしまう」
と不満をもらしていたが、文龍の読みは的確で、日本のインフレに従って、土地の値段はどんどん増えていき、それを売るだけで、次の 事業の元金をつくることができた。

文龍は、小学

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台湾人の夫と高知へ(19歳)

台湾人の夫と高知へ(19歳)

「高知に仲間がいる」「新しい事業を考えている」

松山で肩身の狭い思いをしているところに、こんな言葉をかけられ、高知にも帰れることもあって、菊は少し期待の気持ちを持った。

文龍が日本に帰化していなかったため、入籍できなかったものの、一緒に居れば、きっとよい生活ができると信じていた。

二人の住まいの財産といえば、机一つだけだった。頼りにしていた「仲間」も台湾語で喋り、本当にこれでよかったのかなと

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みーちゃんと松山へ(18歳)

「みーちゃんは,同い年の友達でねえ。 小学校ばあしか出ちょらんきよ、
字ぃも読めんで、わたしがずーっとおしえちゃりよったりしたがよ。 それで、みーちゃんは私のことが好きで好きでねえ。うんと、ようしてくれたがよ。」(母談)

当時、公立の女学校は、全国的に10校程度しかなく、四国では高知県に存在していた。菊が通ったのは、高知県立高知高等女学校で、 現在の高知丸の内高等学校である。

貧しいながらも、

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龍園の記憶

台湾人の父と、日本人の母の記憶を綴りたいと思います。
母の語り、私の経験したこと、など。
台湾に家庭を持っていた父が最後に日本から台湾に逃げた時、日本に残された娘達はどこを頼ればよかったか?渉外交渉のできる行政書士さんに助けて頂いた経験についても、今後綴っていきたいと思います。