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台湾人の夫と高知へ(19歳)

「高知に仲間がいる」「新しい事業を考えている」

松山で肩身の狭い思いをしているところに、こんな言葉をかけられ、高知にも帰れることもあって、菊は少し期待の気持ちを持った。

文龍が日本に帰化していなかったため、入籍できなかったものの、一緒に居れば、きっとよい生活ができると信じていた。

二人の住まいの財産といえば、机一つだけだった。頼りにしていた「仲間」も台湾語で喋り、本当にこれでよかったのかなという不安も あっ た。

文龍は、まず、サイコロを使った賭博を路上で始めた。

戦後とはいえ、台湾人が路上で賭博って、許されるのか???

その後、合法賭博として、麻雀の店を始めた。

合法といえども、賭博だ。

しかし、菊は、松山でのいじめ、戦中の死ぬような思い、戦後、農家にも食料を分けてもらえなかったことなど、いろいろな経験をして おり、19歳といえども、賭博だろうが、なんだろうが、生きていく、という根性が身についていた。怖いものは何もなかった。

また、当時の日本人は、一発当てることを目指す気質の人で溢れていた。博打はその流れに合っていた。麻雀の店は活況で、あっという 間に、店を大きくするチャンスがやってきた。

今後日本の貨幣価値はどんどん下がり、土地の値段が上がっていく。土地を持つことで、次のステップに上がれる。商売がうまくいっ て、お金を借りられるようになれば、土地を買って、利ざやで借金を返していける。土地の値段に応じて商売を転がせば、よい循環が得ら れる。

そう信じて、文龍は麻雀屋の利益を土地の購入にどんどんあてていった。

菊は、土地なんか買わずに、宝石を買ったり、次の事業を速くやれば良いのに、と思っていたが、聞き入れてもらえなかった。本当は、 洋服もたくさん買って着飾りたかった。やっとお金が自由になるようになったのに、土地、土地、土地。

その頃、ちょうど、長女、美香(仮名)が誕生した。

美香のためにも、土地購入より、家にお金を入れて欲しかった。

菊の思いとは別に、この土地転がし戦略は功を奏していった。

その結果、愛宕町にパチンコ店を開店するに至った。(また、合法博打か・・・)

大きな花輪を飾って開店。「仲間」もたくさんやってきた。

高知経済の上昇とともに、パチンコ屋もどんどん利益を上げていった。

そして、梅ヶ辻に第2号店を開店し、その近くに200平米の土地・建物を購入した。長女美香の ための部屋を3部屋用意し、菊と美香にお手伝いさんをつけた。

美香の部屋はどれも広く、一つは、卓球台や小さなトランポリンも入るほどだった。
大きな檻をつくって、その中に小鳥をたくさん飼った。小鳥たちはたくさん卵を産んだ。

文龍は、その広い家を使って、事業を立ち上げたいと菊に相談した。

菊は、若い頃の楽しかった思い出を今実現したいと思い、ダンスホールをやりたいと提案した。

しかし、文龍は、ダンスホールは収益が見込めないと判断、かつ、郷里の親類縁者、友達への雇用機会をつくるため、郷里からコックを 呼んで中華料理店を経営することを決めた。

200平米の土地に中華料理店を置いて、梅ヶ辻のパチンコ店第2号店の2階に住まいを移した。2階のみとはいえ、それでも、十分広 い住まいであった。

この頃、美香は、高知の名門校である土佐中学にトップの成績で入学した美香は頭が良く、風貌も美しく、自分に自信があった。ところが、学校のすぐ近くにパチンコ店があり、そこに帰らなくてはならず、
「家がパチンコ屋」
というのが、自分のプライドを傷つけていた。
「家がパチンコ屋っていじめられる」
sと、菊に訴えた。

ちょうどその頃、菊は一度、パチンコ屋も手伝おうと思って、パチンコ屋に顔を出してみた。すると、パチンコ屋の従業員たちが慌てる様子があった。レジに「今日はとしちゃんが遅くなります」という張り紙があった。
「としちゃんて、誰ぞね?」
と菊が周りに尋ねるも、誰も知らないふりをしていた。文龍の友達に聞いたところ「知らん」と言いつつ、その後で「まあ、男は一人や二人は」と言われ、文龍を問い詰めた。

やたらと、愛宕の店にお金が必要という。そんなにお金がいるのか?の流れで「としちゃん」について問い詰めたところ、
「菊に出会う前に一緒になっていた女で、もう別れたけど、今お金がないといってかわいそうなので」
と、白状した。

それが文龍への貸しになった。美香の「引っ越したい」要望に応え、梅ヶ辻のパチンコ店を売却し、古い家がついていた天神町の土地を購入し、引っ越した。天神町の家には庭もあり、菊はバラやグラジオラス、カンナなどを植えた。卓球台も庭に屋根を置いて設置した。

梅ヶ辻のパチンコ店は大きかったので、余ったお金で追手筋にも土地を購入することにした。

それまで、土地の名義は文龍ばかりであったが、天神町、追手筋の土地の名義は菊となり、菊は、豊かな生活と共に、土地の所有者にも なった。

美香が小さいころは、菊も家に居たが、美香が小学校に上がった頃から、中華料理店を手伝うようになった。働くことの楽しさを思い出 し、活き活きと仕事をした。

経理も菊が切り盛りし、簿記の資格もとった。

当時めずらしかった中華料理店が繁盛し、大きな宴会も連日入り、大きな利益を得たため、大阪に住んでいる兄、一男に土地をさがして もらい、大阪にも土地を購入し、そこに、長男の一男一家を住まわせた。

中華料理店を実質的に菊が切り盛りした。

中華料理店には、姉の信子や、次男つとむの息子であり、菊の甥にあたる信一も雇った。母初子を個室に入院させ、旧家も菊が全部面倒をみた。

中華料理店の従業員には寮を用意し、プライベートまで面倒をみた。従業員が警察のお世話になったり、病気になったりしたときも、菊が全部面倒をみた。

菊は、勉強・研修という形で、たびたび、他店でごちそうを食べた。

近所の歯医者や外科医の奥方や、地域の代表となっているような家のおかみさんに張り合い、派手な洋服を買い、常に髪をセッ トし、美顔器を買い、マニキュアを欠かさず、そして、宝石も購入した。

そして旧家の墓も建てた。

菊は、夢を実現した。

自分が活躍して、自分も自分の周りも生活を充実させた。

美香の後、流産を経験し、その後、次女 佳子をもうけた。美香と佳子は9歳違いだった美香が小さかったころは、主婦として子育てし、時々、大好きな映画を美香と観に行った。菊は、特にハリウッド映画、それも西部劇が大好きで、ジョン ウェインがアイドルだった。

しかし、龍園を切り盛りするようになった中、育児のためにまた主婦に戻る事は無かった。龍園で継続して働くために、佳子を保育所に あずけることになった。

保育所にあずける日の朝、泣きながらおしめをたたんでいたところへ文龍がやってきて
「そんなに子供をあずけるのが悲しいなら、お手伝いさんを雇えばよい」
と言ってもらい、その日から、次女佳子の育児専用のお手伝いさんが来ることになった。

そのお手伝いさんも、事情を抱えていたため、お手伝いさんの住まいも用意した。とにかく、金で解決することはすべて解決できた。

龍園を立ち上げたときは、ネオンサインや、料理サンプル、写真メニュー、回転台のついた円卓など、黃文龍が中国式を導入し、中国の コックが本格的な中国料理を提供するというコンセプトを打ち出した。高知の主な交通手段であった路面電車の停留所「電停」の前の大き な道路に面したところに構え、駐車場、駐輪場も大きく用意した。店の前にいけすを置き、鯉を養殖して、鯉料理も提供したし、当時珍し かったフカヒレや燕の巣なども輸入して扱った。さらに、パーラーも設置し、食後のデザートとして、ソフトクリームやプリン、サンデー なども提供した。

菊が経営に任されるようになって、菊もいろいろなアイデアを打ち出していった。

パチンコ店、龍園と、何もかもがうまくいっていた。

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