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「戻り梅雨」

 夏風邪をひいたのは、梅雨明けしたくせに湿っぽい日々の続く或る日のこと。鼻水が出始め、徐々に喉が痛くなり、37.5℃くらいの熱が出る。折角の土日が潰れてしまいそうな苛立ちを解熱剤と一緒に飲み込んで、水分と睡眠を摂れば1日で治る「いつもの」パターンだろうと気を鎮める。

 長らく遠距離を続けた彼とようやく籍を入れる気になったのは、寂しさを連れて帰ってくることに疲れたからだ。居心地の良い実家を出そびれたまま三十路を迎えようとしているが、気のおけない地元の友人たちがこぞって同級生や同僚と結婚し、子供がいる方が多くなると、父も母もさりげなくその話題を振ってくるようになった。私達に気を遣ったりしなくて良いんだからね、舞子の好きなようにしたら良いのよ――。

 幸い彼も仕事が上手くいっているらしく、先日「あとは結婚だけだな、早く彼女をこっちに呼んでやれって会社で散々言われるんだよ」と言い訳をしながら照れくさそうにプロポーズをしてくれた。新卒からずっと経理の仕事をしているので「何処でも働ける女で良かったね?」と返すと「バリバリ働きたい訳じゃないだろ」と笑われた。実は営業職への誘いがあったことは話したつもりだったが、蒸し返すのも面倒なので黙って左手の薬指に輪っかを嵌めた。

 彼の側に行きたいと願っていたくせに、いざ離れるとなると未練がましくなる自分に呆れてしまう。この街を離れる前に、友人たちに会っておきたかった。馴染みの店にも足を運んでおきたかった。この街で想い出を蓄えておきたかった。両親はもうじき別の県へと安住の地を移してしまう。車社会の街で暮らしていくのは老後が不安だからと、家を売り、多少長閑だが利便性の良い町に越すのだ。私がこの街に戻ってくる理由は少なからず減ってしまう。実家の無い街を地元と呼ぶことはできるのだろうか。用事があって来たとしても、ホテルを借りて泊まるのだ。

 あと数回しか無い土日を潰してしまった自分の愚かさに腹が立つ。月曜からは昼も夜も人と会う予定を組み、隙間で美容院やネイルサロンに最後の予約を入れて、別れを告げる準備をしているのに。1日だって無駄にしてはいけないのに。

 ただ……もうすぐ始める荷造りを思えば、この家でゆっくり過ごせるのは最後かもしれない。それなら、今日と明日くらいはいいか、と思い直してベッドに身を沈める。自分の部屋が案外気に入っていた。そろそろ本棚やベッドを買い替えたいと思っていたくらいだから、別に早すぎるということもないのだ。ただ、いざとなると心構えが足りなかっただけで。

 例年より早い梅雨明けが嘘のように、ひっきりなしに訪れる台風と、秋を迎えてしまったかのような肌寒さ。

 「……観念しろよ、」

 ぐずついた空模様に呟きながら、フリクションと間取り図を机に広げた。考えたって仕方が無い。在るべき姿に向かって進んでいくだけなのだ。観念しろよ、腫らした眼だって晴らしていかなきゃいけないのだから。戻り梅雨なんて未練がましい真似はやめて、明けたままで居てくれなきゃ困るのだ。


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