「わかる」&「できる」錯覚は怖い
こんにちは!あいでんです。
最近職場の近くに「松のや」というトンカツ屋さんができました。今はオープニングキャンペーンということでワンコインでトンカツを食べることができます。
そのせいで昼はalway LUNCH 、夜はトンカツという暴食が始まってしまいました。運動しないと今まで以上に太るぞ…。
博多前炉端一承 にて
▷「わかること」 と 「できること」
最近はこれまでの勉強不足がたたってプログラミングやお金周りの勉強などに追われております。
そんな日々を過ごす中でとても当たり前のことに改めて気づくことができました。
それは、「わかること」 と 「できること」は必ずしもイコールではない、ということです。
ここでの「わかること」 というのは、あることの構造や仕組みを理解しているか、説明ができるかということ。
また、「できること」というのは、あることを体現できるか、再現性があるかということです。
一見するとこれらはイコールであるように感じるのですが、必ずしもイコールではないというのが厄介なところです。
つまり、わかっていてもできるとは限らないし、できていてもわかっているとは限らないということです。
「わかること」 と 「できること」がイコールであれば心強いことこの上ないのですが、イコールであると錯覚してしまうことが往々にしてあります。
できているからわかっていると錯覚してしまうし、わかっているからできるだろうと錯覚してしまうということです。これが非常に厄介なのです。
何が厄介なのかというと、わかっているからできるだろうと錯覚している状態だと、いざという時にそのことに気づくので大苦戦する可能性があります。また、できているからわかっていると錯覚している状態だと、似たような他の場面の時に思うようにいかず大苦戦する可能性があります。
一番厄介なのは、「わかっていない or できない」のに学習意欲がなくなってしまうということです。「わかっているしできている」ことであれば当然ながら学習する必要はありません。しかし、錯覚している状態だと非常に危険なのです。
これをイコールにするのが具体と抽象の行き来だったり、形式知と実践知を行き来するための学習モデルだったりするわけです。
が、錯覚しているかどうかを自分で気づくのは非常に難しいし、日常的に気づく機会があるわけでもありません。だから学習意欲というかアップデートし続けるのが重要なんだあなと。
学習し続けることって「わかっていない or できない」ことをわかるっていう意味でもそうだし、全く認知していなかったことをわかるという意味でもそうだし、「わかるっていること or できること」をわかるという意味でも重要だなあと感じました。
学生だからとか社会人だからとかそういうのに縛られることなく学び続ける人間でありたいなあと感じる思う今日この頃です。
そういう意味では一度読んだ本を読み返すって結構好きなんですよね。最近は本を読めてないから久々に時間をつくらなきゃな。
それでは、また次回!
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