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有名教育団体との出会い【35】脱サラ研修講師が語る 独立開業のリアル 綱を信じて、バンジージャンプ

 独立ひよっこ助け合い運動で、有名教育団体とご縁を結べる

 2002年11月にコンサルの年間契約を結ぶことができた私でしたが、これはいわば帯番組のレギュラーみたいなもの。研修の依頼というのは、スポット契約です。必要に応じてのその都度の受注です。こちらは、不安定なことこの上なしでした。コンサル契約が取れたからといっても、これ一本で食べていけるレベルのものでもありません。仮にバカでかいコンサル契約を1本とれたからといって、これだけに頼り切ってしまうのは極めて危険です。クライアントから契約を切られれば、そこでお終いなのです。理屈の上では、違約金だ、なんだかんだと争うことは可能かもしれませんが、零細事業主には争うための時間とお金がありません。やっぱり、どうやっても不安定さは拭えないのです。

 その年(2002年)の、5月。そののちの11月になって、そういうコンサル契約が取れるなんて夢にも思っていなかった私は、ともかく依頼される仕事に食らいついている毎日でした。この時期の依頼の中心は、大手通信会社の構造改革策の流れに沿いながらの、営業職への配置転換をアシストする研修講師でした。営業の基礎から実際の現場でのトレーニングまでを行っていきます。営業研修を専門にしている私ではなかったのですが、そんな私でも対応できる内容ばかりで本当に助かりました。業界裏話ですが、「やったことのないことをやったように言う」は危ない手です。その点、この時の依頼の内容は、それまでの私の経験でなんとか対応できるレベルのものばかりでした。その昔、自動車メーカー勤務から、販売会社に出向に出て、どぶ板セールスを3年間やっていた経験が大いに役立ちました。

門前払いは当たり前の世界。急に来た自動車のセールスマンを歓迎する家なんてそうはありません。それに、「お宅様のお電話の調子はいかがでしょうか?」のフレーズが使えました。すぐに「帰れ!」と言われることはありません。「大丈夫です」ぐらいの返答はもらえます。無視ではないということは本当に有難いのです。自動車セールス時代、集中的に無視される経験をしていたからこそたどり着けた境地です。またまたここでも、人生無駄なしを実感しました。

 さて、話を戻します。5月、6月と営業同行研修の依頼を何本か受けて、経営的には助かっていました。
営業同行研修では、梅雨時で雨が降っていても傘をさして、訪問活動を遂行します。しんどいことでしたが、文句なんて言いません。

「あぁ、これで来月の○○と△△の支払いができる」
そういう安堵感が、そんな不満を吹き飛ばしていました。同行研修というのは、一人の講師が何人も連れては歩けません。最大で3名です。受講者の数はもちろんこれ以上にいますので、複数の講師が必要になります。私への発注主である研修会社マネジメントフォワード社は、増加の一途のオーダーに応えるために、関西在住の講師だけではなく、関東からも講師を呼び寄せていました。

ということで、現場では関東の講師の方と一緒することも多くなっていましたが、ここで同じ業界人としての話ができるのは有難いことでした。「ところで、幾らもらっているの?」なんてギャラの話もざっくばらんにし合いました。私が当たり前のように「10(万円・一日)です」なんて答えていたら、「そぉなんだ」と言われます。事情を突っ込んで訊いてみると、関東の講師は、「6」とか「7」とかと言われます。どうもマネジメントフォワード社からこの関東講師さんらの関係する関東の研修会社に発注されて、そこからの依頼という事情とのことでした。途中でマージンが抜かれる。いわゆる下請け、孫請けの世界でした。この仕事の元請けは、通信会社のグループ会社である研修会社でした。私は下請けの、知り合った関東講師の方々は孫請けです。しかし、現場では私たちの間には身分差も垣根もありません。同じ「先生」と呼ばれる専門家です。

 何人かいた関東講師の中で、私より10歳ぐらい年長の片山さんという方と何回か現場でご一緒することがあり、懇意になっていきました。聞けば、片山さんも私より少し早く独立したそうで、個人事業主としては、私とほぼ同期みたいなものでした。さらに、片山さんは、この営業研修の分野で私が勝手に師匠と思っている玉山さんとも知り合いでした。狭い世界です。どこかで、誰かと誰かがつながっているのですね。

 ある日の現場での仕事が無事に終わった後のこと。その日、片山さんは宿泊でしたので、一緒に夕飯でもと行った食事の席でのこと。楽しく同じ境遇の者同士語り合っていると、片山さんから唐突にこう切り出されました。
 「カドワキさん、GSの講師をやってみる気ある?」
 「GSですか?あの通信教育の」
私はこう返しました。「GS」というのはとある教育団体の名称でした。この当時の私の知識はこの程度だったのです。サラリーマン時代に、会社からの自己啓発支援とやらで、会社が用意した講座の中から何かを受講しないといけなくなり、その中にこの団体の名前がありました。そうしたことで、かろうじて知ってはいたのですが、当時はその程度の認知度でした。片山さんが言うには、自分はそこの講師をやっていて、その団体には、知り合いもいるので、その気があるのなら紹介するよということでした。

 その時の私がどう反応したかというと、「はい!ぜひ!」という返事ではなく、「はぁ、そうですねぇ」となんとも低い熱量の返事でした。別にやる気がないわけではなく、この話の意味合いにピンと来ていなかったのです。目の前のことに必死過ぎて、先のことまで考える余裕がなかったというところでしょうか。とはいえ、折角の片山さんのご厚意です。「はい。お願いします」とその日は終わりになりました。

 片山さんはおおらかというか、ざっくりしている方で、「分かった。僕のほうから連絡しておくよ。そのうち向こうから連絡があると思うから」と言われて、そのまま。あっという間に月日は流れていきました。そんなことがあったことも忘れかけた頃、東京から一本の電話が私の携帯にありました。見覚えのない番号。相手は、その教育団体でした。この電話がその後の私の独立人生を大きく変えていくとは、その時には、夢にも思わなかったのでした。

 この時代はいわば、ひよっこ達の助け合い運動の時代でした。お互いが持てるリソースを紹介、提供し合う動きをしていました。もらってばかりの私でしたが、片山さんには、この翌年、自分が経験した人事コンサルティングの年間契約の締結の仕方、注意ポイントを提供させてもらいました。どうにかお返しができたので、ほっとしたことを覚えています。もらいっぱなしでもいけないのです。ちなみにこの片山さん、この知識を存分に生かしてくれたのか、私もびっくりするぐらいの大型コンサル契約獲得に成功し、その後、しばしの黄金時代をつくられました。
(明日へつづく)


自分が培って来たものを勇気を出して発信していこうと思っています。お読みいただいた方々の今後に少しでもお役に立てば嬉しく思います。よろしければサポートをお願い致します。続けていくための糧にさせていただきます。