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これからの時代の生き方・働き方

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教員を退職して、地方移住して、我が子の不登校に向き合って、起業して、教育の活動をして、実際にこれまでの生き方・働き方をアップデートする行動をしながら見えてきたものを書いています。
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#自己肯定感

このまんまの自分に、胸を張る。

自分らしくありたいな、と思いながら 自分らしくって難しいな、と思っています。 そんな記事をこれまでも書いていたなと思ってみてみたら かなりたくさんありました。 まだまだあります。笑 結局どこかで自分のありのまま、そのままを 否定したりジャッジしたりしてるんでしょうね。 「こうでなければならない」 いわゆる「ねば」「べき」で評価されることに慣れてしまって それが自分に染み付いてる。 染み付いてるから、もうそれも自分の一部だから、 無意識にそれが発動してしまう。 よ

見た目じゃわからない。自分の心の中心にあるもの。

先日は、時間に追われ、やることに追われ、 ついに息子に言いたくないことを言ってしまった・・・ という記事を書きました。 仕事も精一杯やれることはやりたい。 自分の役割を果たして 社会に貢献する自分でありたい。 けど、我が子を大切にしたい。 その本当に大事にしたいことを大事にできる自分でもありたい。 その狭間で揺れ動くのって 自分らしさも、その子らしさも、みんならしさも大切にしたいからなんですよね。 こう書くと、我ながら、「なんて尊いんだ」なんて思ってしまった。笑 イラ

実は、自己肯定感を知ってからの方が苦しかった。

どういう経緯でか忘れましたが、 自己肯定感に関するYoutubeをみました。 自己肯定感 と 自己を肯定すること は違う、と。 「自己を肯定する」とは、 自分はすごい、自分のここが良い、と 自分の良いところを取り上げ肯定する になりかねない。 でもそうすると、 できない自分は肯定されなくなる。 すごくない自分は肯定されない。 わかりやすかったのは、 do と have つまり、 やっているか、持っているか、で肯定する という表現。 成果、成績、実績、地位、

いつまでも「自分らしく」が叶わないわけだ。

「自分の軸からズレて、相手に合わせる」 その感覚をわかったというか、 その瞬間が自覚できて、 おぉ~これかぁ。 ここで私はブレやすいのね。 と、 自分の心のクセに気づき、 自分をまた深く知る出来事がありました。 あまりに長いこと他人軸で生きてきたために、 自分の心の動きにとても鈍感でした。 だけど、その 「他人軸で生きてきた」ことをやっと自覚して、 「自分軸で生きたい」「自分らしく生きたい」と思って、 自分のことを自分を知る努力を始めて その自分を表に出しながら

自分を、子どもを、枠の中に収めてはいないか?

昨日、コーチングの講座を受けた。 とてもとてもよかった。 特に印象的だったのが、 「ノミのジャンプの話」。 ジャンプ力のあるノミを箱の中に入れて蓋をすると、 蓋の高さまでしか跳べなくなってしまう。 再び蓋を開けても、本当は跳べるはずなのに、 蓋までの高さしか跳べないまま。 私もこれまで何度も聞いたことがあったのだけど、 私がやりたいのはまさにその部分だ、と改めて強く思った。 本当はジャンプ力があるのに、 蓋にぶつかった痛みを覚えてしまい、 もう痛い目をみたく

克服しなくていいこと。

無理して自分を酷使してがんばってきたこれまで。 それで持続不可能になってしまった経験から、 元々持ってる自然に出せる力や強みで ゆるやかなんだけど本領発揮できてる状態がいい それがここ数年の考え方になった。 元々持っている力や強みは 幼少期から発揮しているものなので、 そこをみていくといい。 先日聞いたセミナーでも、 コアな強みや望みは 20歳までにやってきたことの中にある って言っていて、やっぱりそうなんだなと思った。 ここのところ、人前で話すことが増えて、

子育てでイライラ。そんな自分に自己嫌悪。何やってもダメ。悪循環ループ…。

お母さんなら、一度はやったことがあるかもしれない。 子どもたちが起きる前に、自分時間をもつ。 私は早起きは苦ではないので、やっています。 今朝は5時に起きて、今週やることを整理しました。 これは達成。 そして6時頃、涼しいうちに愛犬の散歩に行こうとしたら、 息子がちょっと目を覚ましたので、 散歩に行ってくるねって言ったら 「行かないで」 と言われてしまった。 私の膝の上で寝始め、 しばらくその姿勢で待っていたら寝入ったので、 無事に散歩も達成。 今日はうまくい

謙虚さを超えて「自分への評価が低過ぎる」

みなさんは、 自分自身を正当に評価できていますか? 過小評価していないでしょうか? 今日は、 自分を低く見積もり過ぎないでほしい 本当の自分の価値で生きてほしい そこへの想いを書いていきます。 私は、「教育で繋がる会」という活動をしています。 先生と保護者と地域と、みんなで教育を本気で考えようって、 語ったり学んだりする場をつくっています。 そこに参加してくださった先生の言葉が 引っかかっていて。 私は、来てくださる先生は、みんな魅力的な方だなって思うし、 みん

「何者でもない自分」という大きな壁

はーーー 朝からヒートアップしてしまった。 うちの夫はNFTをやっていて、 そこに対する熱い想い、情熱があるんだけど、 それを表現しないらしいんですよね。 私は詳しくは知らないけど、 お金稼ぎでやってる人、成功している人もいて、 だけど夫は、もっと本質的なアートを楽しみたいし、応援したいらしい。 めっちゃいいじゃん。 その思想をいろんな人と共有して、 そういう世界を広げていく方にちょっとでも動いたらいいじゃん。 自分の界隈の人はみんな言ってることだし。 俺が言っても

あなたも世界を変える存在

みなさんは、「自分の存在が世界を変える」と思いますか? 突然すみません。 私は恥ずかしながら、そう思っている一人です。 自分をかいかぶるつもりはなく、 等身大の今の自分のままでも、そういう存在なんだと思っています。 だから、誰しもそういう存在なんだとも思っています。 なぜそんなふうに思うようになったかというと、 すごく小さなことなんですが、 「思ったことを言う」ようになったから。 それまでは、「思ったことを言わないで済ませる」人間でした。 こんなこと言ってどう思わ

緊張しながらも、自分の言葉で語る。

さっき、ふと、 私って、喋れるようになったな~と思いました。 8月にZoomイベントをいくつか開くのですが、 帰省と重なってしまったんですね。 Zoomなので問題ないのですが、 3年前くらいかな、 あるコミュニティでのZoom会に 実家から参加したときのことがよぎったのです。 私のターンがあって自分が主で話したのだけど、 心臓が飛び出るほど緊張していて、 汗かいていて、声も震えていて、 全然伝わってるかどうかなんてわからない。 相手の様子もうかがえない。 とりあえ

等身大のままで、パフォーマンスを最大にしたい。

最近の気づき。 私は本当は不器用な人。 でも、きれいにできてるように見せたくなるんだな。 きれいに見せてる自分に気づくと、 不一致感というか、ズレてる感じが心地悪い。 等身大の自分でいたい。 そこへの強い希望がある。 それプラス、 そんな自分の力を思い切り表現して 誰かに喜ばれたい。 なんだったら驚かれたい。笑 「不器用」を「器用」に見せるんじゃなくて 「不器用」なりにできることを究めていったら「器用」になる。 そんな自然な形での本領発揮で 喜ばれる何かを この

「がんばりたいけど、疲れたくない」の両立方法

つらい、心が疲弊、キャパオーバー、、 なんとなく自覚はあるけど やるしかないって身を削ってしまうことありませんか? 私は、 教師として働いていた頃 子育て 起業して自分で仕事を始めて どうにも疲れてつらくなることがあります。 でもやめるわけにもいかない。 だからがんばりますよね。 がんばることをやめることができて、 楽になって、あーよかった、 という人もいると思う。 でも、がんばることを続けたい人もいると思うんですよね。私はそうです。 がんばって自分の力を発揮して

自分らしく生きることって、どうしてこんなに難しいの?

「自分らしく生きる」 本当によく聞くようになりました。 定義はいろいろあると思いますが、 人に合わせて窮屈に生きるのではなく、 自分を軸に、自然体で生きる 私はそんなふうに捉えています。 教員をしていた数年前、 心と体を壊して休職したころから、 いや、自覚できてなかったけど その前からずっとそう生きたいと思ってきたなぁと思います。 でも、 よし、明日から自分らしく生きよう! そう思ってできるものではありませんでした。 望ましい生き方なのはわかってる。 でも難し