見出し画像

20代のころ出会えてよかった7つの小説

僕はこの記事を書いている2021年3月現在、38歳。男性です。
20代のときに出会い、それから時おり読み返している7つの小説作品を紹介します。よろしければご笑覧ください。

そもそも小説とはきわめてパーソナルなものです。映画ともテレビとも異なり、誰かと同じタイミングで読むということができません。だからこそ、時代を超えても読み継がれ語り継がれて、人々の記憶に残り続ける作品も多いと思います。

何かひとつでも、あなたにとって出会いとなる作品があれば幸いです。

1)『風の歌を聴け』(村上春樹)
- 軽妙な文体で綴られた「喪失」 -

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

散文調にシャッフルされた文章。
”僕”と”鼠”と”ジェイ”、主要人物の軽妙なやりとり。
メタファーの中に散りばめられた喪失感、ノスタルジー。

最近の村上作品が濃厚豚骨ラーメンだとすれば、この1979年のデビュー作は塩ラーメンのようなアッサリ風味。キラキラしてます。
でも、麺なのか、スープなのか、メンマなのか、海苔なのか、どこかに残る後味があるんですよね。
その後味が何なのだろうと気になって、新刊が出ると買ってしまいます。
※村上作品の中にはラーメンはほぼ登場しません。主人公が作るのはパスタばかり。

この作品ではあくまで暗喩的な表現に留められていますが、”僕”と”鼠”は、生者と死者、昼と夜、表と裏、存在するものと失われたもの、といった2つの世界の関係性を象徴しています。

僕はノートのまん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの……僕はそれらを最後まで書き通すことはできなかった。

村上春樹氏はその後、1980年に『1973年のピンボール』、1982年に『羊をめぐる冒険』を発表し、「羊三部作」と呼ばれる作品群を構成していきます。(さらに1988年、数作を間において『ダンス・ダンス・ダンス』が発売。物語の接続性から「羊四部作」となりました)。

2つの世界の物語は、その後もモチーフを変えながら、村上作品の重要なテーマとして横たわり続けているように感じます。

あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。

風の歌を聴け
村上春樹、講談社文庫


2)『トリツカレ男』(いしいしんじ)
- 本気で「ハマる」と道は開ける -

「なにかに本気でとりつかれるってことはさ、みんなが考えているほど、ばかげたことじゃあないと思うよ」

主人公ジュゼッペのあだ名は”トリツカレ男”。
何かに夢中になると、寝ても覚めてもそればかり。

オペラ。
三段跳び。
サングラス集め。
潮干狩り。
刺繍。
ハツカネズミ。

そんな彼が、ある少女に恋をします。
訳あって凍り付いている彼女の心を溶かすために、ジュゼッペがトリツカレたものは…

童話の語り部のような、軽妙かつ独特な文体で物語は綴られます。
笑えるけれど、どこかもの哀しくて、大切なものを考えさせられる作品。
ものごとには影があり、光がある。だから美しいのだと
まるで小説版のフォレストガンプ。

「そりゃもちろん、だいたいが時間のむだ、物笑いのたね、役立たずのごみで終わっちまうだろうけれど、でも、きみが本気をつづけるなら、いずれなにかちょっとしたことで、むくわれることはあるんだと思う」

主人公の相棒であるネズミくんによる上記のセリフに、作者のいしい氏が『トリツカレ男』で伝えたかったことが集約されるのだと感じます。

トリツカレ男
いしいしんじ、新潮文庫


3)『項羽と劉邦』(司馬遼太郎)
- 乱世に見る人の本質 -

長者とは人を包容し、人のささいな罪や欠点を見ず、その長所や功績をほめてつねに処を得しめ、その人物に接するとなんともいえぬ大きさと温かさを感ずるという存在をいう。この大陸でいうところの徳という説明しがたいものを人格化したのが長者であり、劉邦にはそういうものがあった。

物語の始まりは紀元前221年。いまからちょうど2222年前のこと。

主役は2人。
一方は勇猛無比で楚の覇王となった項羽。
もう一方はごろつきあがりで戦さ下手の劉邦。

劉邦はのちに漢の高祖となる人物ですが、そこに至るまでの波瀾万丈と、登場人物の類型、司馬遼太郎の歴史観、人間観がバツグンに面白い。
本筋のストーリー描写に時おり歴史的な背景説明が織り交ざって、独特のリズムで進みます。

人間だれしも生まれ持った特性や資質がありますが、最終的に人を惹きつけるもの、それは「」だということを思い知らされます。

もうひとつ、この作品は「リーダーシップの本」として有名ですが、むしろ僕は「群雄割拠の乱世で人々がどのように振る舞うのか」という行動原理をつかむためにも大いなる示唆を与えてくれると感じます。

この大陸は、春秋戦国の動乱をへて、賢者、策士といわれるような情報通や入説家の才能をふんだんに育ててきた。かつての戦国の野心家たちは実力者を歴訪しては国際関係論を説き、あるいはその情報を仕入れ、ときに他の実力者のものへ奔ってそれを売りつけたりした。

国士無双」「馬鹿」「背水の陣」「四面楚歌」などなど多くの故事の由来なども出てきます。
2222年経っても、変わらない人の本質。あぁ歴史は面白い。
コロナショックで世が乱れ変わりゆくいま、再読して気付かされることばかりです。

項羽と劉邦
司馬遼太郎、新潮文庫


4)『星の王子さま』(サンテグジュペリ)
- 「器」としてのストーリー -

「じゃ秘密を言うよ。簡単なことなんだーーものは心で見る。肝心なことは目では見えない」

小説というよりは、寓話のような、詩のような作品。

20代の頃は、王子さまとバラ、王子さまとキツネ、それぞれの出会いと別れに自分の感傷を重ね合わせていました。
40代を前にすると、また違った箇所に目が行くことに気づきます。それは王子さまが旅をした星々で出会う人たち

権威主義におぼれた王様。
他人をみな自分の崇拝者と勘違いするうぬぼれ男。
酒を飲む恥ずかしさを忘れるために飲み続ける酒飲み。
星の数を数え続けているうちに、目的を見失うビジネスマン。
規則のために星に明かりを点け続ける点灯夫。

こうはなりたくないやと思っていた大人たちに、自分が重なり合ってしまう瞬間があること。
そして、隣の芝生(星)をいくら青いと思って羨ましがっていても、それは手に入らないこと。

「人にとっての星の意味は、人ごとに違うだろ。航海している人には星は案内だ。他の人にとっては小さな光るものでしかない。学者たちには星は研究の対象。あのビジネスマンの目にはお金に見える。でもそういう星はどれも声を出さない。きみだけが他の人たちのと違う星を持つ…」

2005年に著作権が公有化されて多くの翻訳が生まれました。読み比べを楽しんでみるのも一つだと思います。

シンプルなストーリー構造ゆえに、ミクロにもマクロにもいくつもの解釈ができる話です。
僕の解釈も星のみかたの一つにすぎません。
願わくば、子供たちが大人になってもこの本を楽しんで読める未来を。

星の王子さま
サンテグジュペリ著、池澤夏樹訳、集英社文庫


5)『こころ』(夏目漱石)
- 「時代の移ろい」という普遍性 -

私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、そのほうが私に取って自然だからである。

上「先生と私
中「両親と私
下「先生と遺書

の3編からなる、日本屈指の文学小説。
20代のころの僕は、先生と奥さんとKによる、三角関係のラブストーリーものだと思っていました。そこに人間の業の深さを見ていました。その部分だけをみても静謐で透き通るような美しい文体、ミステリアスな内容で楽しめます。でもそれはこの物語が秘めている主題の表層に過ぎないといまになって感じます。

こころの時代背景は、明治から大正へと時代が移り変わったころ。
「先生と遺書」の終盤、先生は遺書のなかでこう書き記します。

夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。

先生はこれをきっかけに死を選択します。

当時、明治天皇の大葬と日を同じくして、陸軍大将の乃木希典氏が殉死するという件がありました。漱石が享年50で没したのは大正5年(1916)。漱石自身が明治に生き、大正のはじめにその生涯を終えたという背景と重ね合わせると、「時代の移ろい」という不変・普遍のテーマが浮かび上がります。

それを作品に投影したことが漱石のメッセージであり、令和になったいまでも読み継がれ語り継がれる理由のひとつなのかもしれません。

こころ
夏目漱石、新潮文庫


6)『蝉しぐれ』(藤沢周平)
- かつて見た憧憬と、日本語の美しさ -

いちめんの青い田圃は早朝の日射しをうけて赤らんでいるが、はるか遠くの青黒い村落の森と接するあたりには、まだ夜の名残の霧が残っていた。じっと動かない霧も、朝の光をうけてかすかに赤らんで見える。

清流と木立に囲まれた架空の藩「海坂(うなさか)藩」。
そこに生まれ育ったひとりの少年剣士が、父の悲運の死に直面します。
やがて青年になる中で、父の死の背後にあった巨大な権力抗争に自身も巻き込まれながらも、困難と挫折を乗り越えて成長していくストーリー。
親子の絆、友情、剣技、異性への淡い想い、謀略との闘い、運命のすれ違い…と、少年の成長譚に必要な要素がすべて詰まっています。

さらに藤沢作品を一級品たらしめているのは、その情景描写の巧みさ
僕たちがいつかどこかで見た懐かしい景色が作品中に散りばめられており、読み手に対して鮮やかにその世界を焼き付けてきます。と同時に、日本語がもつ表現の豊かさと美しさをあらためて感じさせられます。

顔を上げると、さっきは気づかなかった黒松林の蝉しぐれが、耳を聾するばかりに助左衛門をつつんで来た。蝉の声は、子供の頃に住んだ矢場町や町のはずれの雑木林を思い出させた。助左衛門は林の中をゆっくりと馬をすすめ、砂丘の出口に来たところで、一度馬をとめた。前方に、時刻が移っても少しも衰えない日射しと灼ける野が見えた。助左衛門は笠の紐をきつく結びなおした。
馬腹を蹴って、助左衛門は熱い光の中に走り出た。

1927年に山形県で生まれた藤沢周平が終戦のラジオ放送を聞いたのは18歳のとき。
教員時代、記者時代ののちに作家へと転身した彼の作風には、自身が20代の頃の大病と妻の早逝が色濃く影響しているようです。
架空の海坂藩を舞台にした作品を多く遺しているのも、彼がかつて見た憧憬をいつまでも誰かの記憶に留めておきたいという想いが強かったからなのかもしれないと、読み手のひとりとして感じています。

蝉しぐれ
藤沢周平、文春文庫


7)『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹)
- 喪失を「取り戻す」ための旅 -

ひとりの人間が、他のひとりの人間について十全に理解するというのは果たして可能なことなのだろうか。
つまり、誰かのことを知ろうと長い時間をかけて、真剣に努力を重ねて、その結果我々はその相手の本質にどの程度まで近づくことが出来るのだろうか。我々は我々が良く知っていると思い込んでいる相手について、本当に何か大事なことを知っているのだろうか。

村上春樹氏は、デビュー当初は散文的で格言的な文体のアフォリズムや、厭世的な世界観をもつデタッチメントの作風でしたが、1982年の『羊をめぐる冒険』以降、「物語」を語りはじめ、作品は徐々に長編化していきます。

1985年『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、1987年『ノルウェイの森』、1988年『ダンス・ダンス・ダンス』、1992年『国境の南、太陽の西』を経て発表されたのが、この『ねじまき鳥クロニクル』です。

この小説では村上氏自身が転換点だったと後に語っていますが、コミットメント=人と人との関わり合いが主題になります。

これまでのぼくの小説は、何かを求めるけれども、最後に求めるものが消えてしまうという一種の聖杯伝説という形をとることが多かったのです。
ところが、『ねじまき鳥クロニクル』では、「取り戻す」ということが、すごく大事なことになっていくのですね。これはぼく自身にとって変化だと思うんです。
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』1996年、新潮文庫

『ねじまき鳥クロニクル』における主人公=「僕」は、井戸に潜ったり、壁を抜けたりして、時間や空間を越えます。夫婦の関係、親子の関係、歴史と暴力性、心の痛みとそこからの回復、闇の世界と光の世界…といったものが、様々なモチーフにメタファーとして投影されていきます。「クロニクル=年代記」という言葉が指し示すように、過去と現在が入り混じりながら、重層的な構造でもって読み手に語り掛けてきます。

そして注目したいのは、この作品が書かれた時期。

〈第1部〉泥棒かささぎ編 『新潮』1992年10月号 - 1993年8月号に掲載後、1994年4月出版
〈第2部〉予言する鳥編 1994年4月書き下ろし出版
〈第3部〉鳥刺し男編 1995年8月書き下ろし出版

同時期、国内外の大きな事件・戦争には、以下のようなものがありました。

湾岸戦争 1991年1月
松本サリン事件 1994年6月
阪神・淡路大震災 1995年1月
地下鉄サリン事件 1995年3月

偶然なのか、必然なのか、『ねじまき鳥クロニクル』には、これらの事件・戦争と(根源的なところで)呼応するものがあり、現実と小説は切り離せないように感じます。
1991年~1995年にかけて米国に滞在していた村上氏の眼には、世界や日本で起きているものごとがどのように映ったのでしょうか。

やがて宗教・暴力性・天災に関するテーマの追求はより顕在化し、後に1997年のノンフィクション『アンダーグラウンド』、2002年の長編『海辺のカフカ』、2009~10年の長編『1Q84』、2017年の長編『騎士団長殺し』へと繋がっていきます。

それから僕は息を殺し、じっと耳を澄ませる。そしてそこにあるはずの小さな声を聞き取ろうとする。水しぶきと、音楽と、人々の笑い声の向こうに、僕の耳はその音の無い微かな響きを聞く。そこでは誰かが誰かを呼んでいる。誰かが誰かを求めている。声にならない声で。言葉にならない言葉で。

僕自身、この作品を自分のなかでうまく消化できていません。消化しきれるときは来ないのかもしれません。
それは「論理」を越えた「物語」だからということもあるでしょうし、ごくごくパーソナルなことも、非常に大きな社会システムとも重なるものを秘めているからだとも感じています。

だからこそ、きっと人生の中で時には井戸に潜り、壁を抜けるために、何度も読み返す時が来るのだと思います。

ねじまき鳥クロニクル
村上春樹、新潮文庫


8)7つの小説から見えてきた「20代」で出会えたもの

今回、このような振り返りを行ったのはFacebookで元同僚がバトンを渡してきた「#7日間ブックカバーチャレンジ」がきっかけでした。

7つの作品をどう抽出しようかと悩んだとき、ふとよぎったのが「そういえば20代の時にどんなことに行き詰まり、どんな作品を読んだっけ」というものでした。

僕は20代の間、大学から社会の荒波に出て、結婚しました。その10年間はかけがえのない時間であったと同時に、「何物でもない自分」「特に武器と思えるものがない自分」に悩み、模索する時期でもありました。

そんな時に出会った作品たちは、

本気になれるものとは?
自他の器って?
個人と組織の関係は?
時代はどう移ろう?
忘れてはいけない憧憬は?
喪失と引き換えに得るものは?
ものごとの歴史や時代背景を知ることはなぜ大切か?


…といったことを、20代の頃の僕に教えてくれました。

小説を通して追体験したことが、こうして30代も終わりに差し掛かってきたいま、ふと振り返ると自分の価値観や世界観の大きな幹になっていると感じます。

そして何より、小説の世界に没頭する時間そのものが、当時の僕にとってなによりも幸福でかけがえのない時間であった。…と、いまになって思います。


いかがだったでしょうか。これを読んでくださったあなたにとっても、大切に思える作品が見つかる一助になれば幸いです。

ここまでお読みいただいて、ありがとうございました!!


よろしければ「スキ」やシェアをお願いします。また「フォロー」いただけると励みになります!


この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?