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禅語の前後

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禅の言葉をテーマに何か書いてみよう、という試み。
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2020年2月の記事一覧

禅語の前後:山花開似錦(さんか ひらいて にしきに にたり)

禅語の前後:山花開似錦(さんか ひらいて にしきに にたり)

「山はいま錦の綾なす花ざかり」というと、めでたく春めいて聞こえる。
 咲いて散る、とくに桜の花などには、滅びの美学などを重ねることもできる。「ねがわくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」は、西行法師の有名な歌である。その歌の通りに、西行法師が二月の満月のころに亡くなられたというニュースは、当時の京の都に一種異様な興奮をもたらしたという。

 花見酒もいいよね。…話がそれてきた。

 元

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禅語の前後:大道透長安(たいどう ちょうあんに とおる)

 何か儀式的なことをしたほうがよいかと二人で話して、僕と彼女は互いの両親の顔合わせと結納とのために、ホテルの離れを借りて宴席を設けた。
 離れは茶室としても使える部屋で、「大道透長安」の掛け軸が用意してあった。ホテルの人が、門出を祝うような意味合いを込めてくれたのだろう。

 これは唐の時代の有名な禅僧、趙州の逸話から来た言葉だという。「道とは何でしょうか」と若い僧に尋ねられた趙州は「道なら、うん

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禅語の前後:不識(ふしき)

 伝説的に有名な、達磨大師の自己紹介のひとこと。

 達磨大師が西の国から中国にやってきたとき、仏教学者でもあった梁の武帝との間に、3つの問答があったという。ざっくり言うと、こんな感じだったらしい:

武帝「わたしが厚く保護する仏教には、何のメリットがある?」
達磨「いや、何のメリットもない(無功徳)。」
武帝「仏教の聖なる極意を知っているかい?」
達磨「そんなものは、どこにもない(廓然無聖)。」

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禅語の前後:三千刹界一甌春(さんぜんせっかい いちおうの はる)

禅語の前後:三千刹界一甌春(さんぜんせっかい いちおうの はる)

 これは禅の言葉というよりは、茶を飲んだときの感動を歌にしたものの一節のようだ。鎌倉時代は缶コーヒーもレッドブルもなかったのだから、茶のカフェインはさぞかし効いたことだろう。

東君北焙碾芳塵 東君北焙芳塵を碾く
乳粥瓊糜綴歯新 乳粥瓊糜歯を綴って新たなり
両腋清風十虚窄 両腋の清風 十虚窄し
三千刹界一甌春 三千刹界 一甌の春
(虎関「済北集」より「茶」)

「太陽の女神が、舞い散る花を、臼でひ

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禅語の前後:行亦禅坐亦禅(ぎょうもまたぜん ざもまたぜん)

禅語の前後:行亦禅坐亦禅(ぎょうもまたぜん ざもまたぜん)

 こういうものを毎日書いているのだと妻に言ったら、禅をやっていらっしゃるんだから洗い物を片付けたりとかお掃除とかそういう普段のことからちゃんとされる方なんですよねそういうものなんですよね禅って云々と妻に言われた。はい、反省します。

行亦禅坐亦禅。  行もまた禅 座もまた禅。
語黙動静體安然。 語黙動静 体 安然。
縦鋒刀遇常坦坦。 縦ひ鋒刀にあうとも常に坦坦。
假饒毒薬也閒閒。 假饒毒薬もまた閒

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禅語の前後:南泉斬描(なんせん ざんみょう)

禅語の前後:南泉斬描(なんせん ざんみょう)

 村上春樹の長編小説に、「ウイスキーの銘柄と同じ名を騙る謎の男が、無抵抗な猫たちを次々と斬る」というシーンがある。かなり強烈で、一度読むと忘れられないと思う。

 禅問答のような意味の分からないことを言いつつ、ジョニー・ウォーカーが楽しげに猫たちを斬り捨てていく様を、村上春樹の洒脱な文体が執拗に描く。心臓をとりだして口に運び、首を切り離して残りは捨ててしまう、鞄の中からはほら次の猫、ねぇこの猫には

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禅語の前後:長安城裏任閑遊(ちょうあん じょうり かんゆうにまかす)

禅語の前後:長安城裏任閑遊(ちょうあん じょうり かんゆうにまかす)

 この一節は、有名な禅の逸話、南泉斬猫の後段に関する感想だという。
 おまえならどうした、と問われた弟子の趙州が頭に草履を載せて辞し、それを見た師匠の南泉が「お前が居たら猫は救われたのにな」と言ったという、なんとも捉えがたい物語の終わり。それに対する、二人より何世代か後の禅僧、雪竇和尚からの感想。

 公案圓來問趙州。 公案 円にし来って趙州に問う。
 長安城裏任閑遊。 長安城裏 閑遊に任す。
 

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禅語の前後:無心(むしん)

禅語の前後:無心(むしん)

 西行という、鎌倉時代の僧がいる。歌人として有名。エリート武士であったが、若くして突然に出家したという、その若いころの作と言われる歌:

そらになる心は春のかすみにて よにあらじとも思ひ立つかな
(西行「山家集」中・雑)

 ここで歌われる「そらになる心」というのは、心ここにあらず、うわのそらの状態を指すものだとされている。「よにあらじ」は、この世にはもういられない、すなわち、出家の決意。

 い

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禅語の前後:無功徳(むくどく)

禅語の前後:無功徳(むくどく)

 功徳、というと有難い何かみたいなニュアンスがあるけれど、該当する英訳としては「メリット」になるそうだ。英語版Wikipediaに、そう書いてあった。

 南北朝時代の中国を達磨大師が訪れたころ、南朝の帝は仏教を手厚く保護していて、自身も熱心な仏教徒だった。帝は達磨を大歓迎で宮中に招き、直々に質問タイムを設ける。帝からの最初の質問は「なんの功徳かある」、朕が手厚く保護するこの仏教には、どんなメリッ

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禅語の前後:泥牛吼月木馬嘶風(でいぎゅう つきにほえ もくば かぜにいななく)

禅語の前後:泥牛吼月木馬嘶風(でいぎゅう つきにほえ もくば かぜにいななく)

 原典はおそらく「五灯会元」巻五、曹洞宗の創始者のひとり曹山本寂の詩。それなりに有名なようなのだけれど、日本ではもっぱら「泥牛吼月木馬嘶風」として流通しているらしく、ネット上では原文の書き下し文を見つけられなかった。(見つけられなかったことに、ちょっとわくわくしている。)
 適当に書き下してみるが自信はない。ぜんぜん間違えてるかもしれない。

焰裏寒冰結, 焔の裏は氷結して寒く、
楊花九月飛。 柳

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禅語の前後:江路野梅香(こうろ やばい かんばし)

禅語の前後:江路野梅香(こうろ やばい かんばし)

 いつのまにか禅の言葉にされていたのだという、唐の詩人、杜甫の詩の一節。元の詩はずいぶん寂しいというか、寂しい中の自由というか、そんなふうな春の歌であるようだ:

時出碧雞坊、西郊向草堂。
  時に碧雞坊を出で 西郊をば草堂に向う。
市橋官柳細、江路野梅香。
  市橋には官柳細く、江路には野梅香し。
傍架齊書帙、看題減藥囊。
  架に傍いて書帙を斉え、題を看て薬嚢を検す。
無人覺來往、疏懶意何長。

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禅語の前後:両忘(りょうぼう)

禅語の前後:両忘(りょうぼう)

 科学的な方法論は万能だと、僕は思っていた。分ければわかる、わかればできる、ごく単純な原理原則だ、それで人類はここまで発展した、このやりかたですべてがわかるのだと、2011年3月11日まで、僕は無邪気にそう考えていた。

 私たちの日常経験している世界は、すべて相対の世界である。大小・高低・左右・前後・男女・老幼・是非・善悪、さらに自他・賓主・主観と客観というように、すべて相対している世界である。

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禅語の前後:本来無一物(ほんらい むいちもつ)

禅語の前後:本来無一物(ほんらい むいちもつ)

 もともとなにもない、という意味の言葉。
 禅宗の初代を達磨として、そこから数えて六代目にあたる慧能の逸話からきた言葉らしい。五代目にあたる慧能の師匠と、慧能の兄弟子との三者のやりとりから来る、伝説の逸話だ。ジャンプの連載になるくらいに熱い。

 五代目が「自らの悟りを言葉にして持ってこい」という宿題を出したとき、秀才で有名だった慧能の先輩、神秀は、こう書いた:

身是菩提樹  身は是れ菩提樹

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禅語の前後:○(円相(えんそう))

禅語の前後:○(円相(えんそう))

 ただ〇を書いてあるだけの掛け軸がある。これで、禅の神髄、悟りの境地、仏性の本質、等々の、言葉にならないものを表すのだという。

 ただ丸を描くだけではちょっと、と思うこともあったのだろう、○の隣に何か言葉を添えるケースも多いという。「円かなること太虚の如し」「天上天下唯我独尊」「花有り月有り楼台有り」…。素人考えだけど、あまり書きすぎてしまうと、円相である意味が無くなってしまうような気もする。

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