禅語の前後:泥牛吼月木馬嘶風(でいぎゅう つきにほえ もくば かぜにいななく)
原典はおそらく「五灯会元」巻五、曹洞宗の創始者のひとり曹山本寂の詩。それなりに有名なようなのだけれど、日本ではもっぱら「泥牛吼月木馬嘶風」として流通しているらしく、ネット上では原文の書き下し文を見つけられなかった。(見つけられなかったことに、ちょっとわくわくしている。)
適当に書き下してみるが自信はない。ぜんぜん間違えてるかもしれない。
焰裏寒冰結, 焔の裏は氷結して寒く、
楊花九月飛。 柳の花は九月に飛ぶ。
泥牛吼水面, 泥牛 水面に吼え、
木馬逐風嘶。 木馬 遂に 風に嘶く
炎は凍らない。柳が咲くのは春だ。泥牛も木馬も鳴いたりはしない。つまり、ありえないことが次から次へと起きている様子が、ここには語られている。
この詩は、「丹霞焼仏」という逸話に対する、曹山の感想であるらしい。
「丹霞焼仏」。丹霞という僧が寒い日に、仏像を焼いて暖をとる。人にとがめられると「焼いて仏舎利を取ろうと思って」と応える。木仏から仏舎利が出てくるはずないじゃないか、と重ねてとがめられると「じゃあ、別に焼いてもいいよね」と返す。
ずいぶんと人を食った話であるが、痛快さ・爽快さも感じられる。
禅の言葉は、言葉にならないものを言葉にしようとする試みなので、ときにエキセントリックでフォトジェニックなカオスの様相を呈する。
意味のない言葉の羅列だと切り捨てきれない何かが、そこにはあるような気がする。騙されているのかもしれないけど。
泥の牛が月に吼える。木の馬が風にいななく。当然、そんなもの見たことも聞いたこともないけれど、妙に心に残る風景に思えるのは、何故だろう? フロイトやユングなら、何というだろう。