禅語の前後:長安城裏任閑遊(ちょうあん じょうり かんゆうにまかす)
この一節は、有名な禅の逸話、南泉斬猫の後段に関する感想だという。
おまえならどうした、と問われた弟子の趙州が頭に草履を載せて辞し、それを見た師匠の南泉が「お前が居たら猫は救われたのにな」と言ったという、なんとも捉えがたい物語の終わり。それに対する、二人より何世代か後の禅僧、雪竇和尚からの感想。
公案圓來問趙州。 公案 円にし来って趙州に問う。
長安城裏任閑遊。 長安城裏 閑遊に任す。
草鞋頭戴無人會。 草履頭に載く、人の会する無し。
歸到家山即便休。 帰って家山に到って即便ち休す。
(碧巖集 第六十四則)
趙州に聞いたら丸く収まった。長安の城内を気の向くままそぞろ歩く。草履を頭に乗せたその意味が分かる者はいない。家に帰ってくつろいでいる。そんなくらいの意味らしい。
ごく率直に言って、僕には、はじめからおわりまで全く意味が分からない。…が、きっとそういう、分からないで当たり前だという種類のものなのだろう、これは。
長安の都は今しも「見渡せば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」というように、春爛漫で天下泰平である。そののどかな都の春景色のなかを、肝知りあった南泉と趙州の師弟二人が仲よく、足の向くままにそぞろ歩きしているという意味である。まさしく父子唱和・主格和楽そのものを絵解きしたような句である。
(芳賀幸四郎「禅語の茶掛 一行物」)
確かに、こういう他所から見たらまったく意味が分からないことがらについて、お互いに腹を割って分かりあえる相手が居たならば、花の都をそぞろ歩くように、きっと楽しく安らかに過ごせることだろう。
けどなぁ…この前段で、子猫は斬られているんだよなぁ…それがあってこその楽しさだ、ということなのかなぁ…。