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禅語の前後:山花開似錦(さんか ひらいて にしきに にたり)

「山はいま錦の綾なす花ざかり」というと、めでたく春めいて聞こえる。
 咲いて散る、とくに桜の花などには、滅びの美学などを重ねることもできる。「ねがわくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月もちづきの頃」は、西行法師の有名な歌である。その歌の通りに、西行法師が二月の満月のころに亡くなられたというニュースは、当時の京の都に一種異様な興奮をもたらしたという。

 花見酒もいいよね。…話がそれてきた。

 元々のこの言葉は、今から千年くらい前に編纂された、碧巖集へきがんしゅうという禅問答のアンソロジー集に、大龍だいりゅうという僧の言葉として出てくる:

舉。僧問大龍。
 舉す。僧、大龍に問う。
色身敗壞。如何是堅固法身。
 色身しきしん敗壊す。如何なるか是れ堅固法身ほっしん
龍云。山花開似錦。澗水湛如藍。
 龍云く、山花開いて錦に似たり、澗水かんすい湛えて藍の如し。
(碧巖集 第八十二則)

 色身しきしん法身ほっしんも仏教の用語で、色身は普通の人の身体と心、法身は仏さまの身体と心、とを指す。
 わたしらは死んだら何も無くなりますけど、仏さまは不滅だといいます、どうしたら不滅になれるんでしょうか、と(たぶん)若い僧から尋ねられた大龍の答えが、「山花開いて錦に似たり」という、フォトジェニックな風景描写だった。

 禅の言葉は、ほんらい言葉にできないものを言葉にしようという試みなので、哲学的な問いに対して風景描写を返すようなものが、よくある。
 そうして返される風景描写のなかには、ひどく美しいものもある。死ぬの生きるのという話に、春爛漫の花景色が応じていて、それがよけいに強いコントラストで心に残る。西行の歌もそうだし、この禅語もそうだ。何かしらそこには、万人共通の心の奥底のほうに、呼応するものが有るのだろう。