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禅語の前後:無功徳(むくどく)
功徳、というと有難い何かみたいなニュアンスがあるけれど、該当する英訳としては「メリット」になるそうだ。英語版Wikipediaに、そう書いてあった。
南北朝時代の中国を達磨大師が訪れたころ、南朝の帝は仏教を手厚く保護していて、自身も熱心な仏教徒だった。帝は達磨を大歓迎で宮中に招き、直々に質問タイムを設ける。帝からの最初の質問は「なんの功徳かある」、朕が手厚く保護するこの仏教には、どんなメリットがあるの? だった。
その問いに対する達磨の答えがこの「無功徳」、メリットなんて無いよ、のひと言。
達磨は早々に北に渡ってしまい、その後この帝の国は、あまりぱっとしないまま滅んでしまったという。
なんのメリットもない。あるいは、なんらかのメリットを期待するようじゃいけない、という言い方も、できるかもしれない。
たとえば太陽である。太陽は無量の熱と光とを地球上の万物の上に公平に送り、万物を生育せしめている。これはまことに無量無辺の恩恵というべきである。しかし太陽は本然の自性のままに燃焼しているだけで、万物に恩恵を施してやろうなどとは少しも考えておらず、また恩恵を施しているなどと意識してもいない。いささかもその功を誇ることはない。
(芳賀幸四郎「禅語の茶掛 一行物」)
ぼくらは太陽でも仏様でも禅師でもなく、ただの一般人であるので、何のメリットも期待できないことばかりして過ごすことは、なかなかできない。それじゃ商売にならない。
ただ、だけど、時にはそんな商売にならないことに、つい心が動くこともある。(「ルパン三世 カリオストロの城」に、そんなセリフがあった。営利誘拐なら協力せんぞ、という銭形警部に、商売抜きだ、とルパンが返すのだ。)人にはなにかそういう、何のメリットもないことを求めるような、そういう器官が備わっているのかもしれない。そればっかりでは生きていけないけど、そういうことが一切ないと、それはそれで息苦しいのだ。
この文章を書くことだって、そうだ。何のメリットもない。
気休めぐらいにはなるのかもしれないけど、毎日続けるコストに見合うメリットがあるわけではない。なのに、何でか続けている。きっと今は、自分的に、そういう無功徳なことをしたい時期なのだろう、と思う。