禅語の前後:本来無一物(ほんらい むいちもつ)
もともとなにもない、という意味の言葉。
禅宗の初代を達磨として、そこから数えて六代目にあたる慧能の逸話からきた言葉らしい。五代目にあたる慧能の師匠と、慧能の兄弟子との三者のやりとりから来る、伝説の逸話だ。ジャンプの連載になるくらいに熱い。
五代目が「自らの悟りを言葉にして持ってこい」という宿題を出したとき、秀才で有名だった慧能の先輩、神秀は、こう書いた:
身是菩提樹 身は是れ菩提樹
心如明鏡台 心は明鏡台の如し
時々勤拂拭 時々につとめて拂拭し
莫使惹塵埃 塵埃を惹かしむること莫れ
(神秀)
「体は菩提樹、心は鏡、常に掃除につとめて、汚れを付けてはならない。」
菩提はサンスクリット語の「悟り」の漢訳なので、「本来この身の内には悟りがある」というようなニュアンスも含むだろう。この言葉も、禅の言葉として出回っている。普通に良い言葉である。
で、天才肌の慧能が、それを見てからこう書いたという:
菩提本無樹 菩提本樹無し
明鏡亦非台 明鏡亦台に非ず
本来無一物 本来 無一物
何處惹塵埃 何れの処にか塵埃を惹かんや
(慧能)
「菩提は樹ではない、鏡にもまた台座はない、もともと何もないところの、どこに汚れが付くというのか。」
ほらまた、もう、あなたたち禅坊主は、ほっとくとすぐに、こういうこと言う。
仏教の言う「無」は、ほんとうに何も無い。般若心経などは、しつこいくらいに「ない」を繰り返す。
たとえるなら、天井も壁も床もない。窓も扉も鍵もない。信号も道路もない。街もない。地面もない。空もない。色もない。人もいない。あるとかないとか考えている自分自身すら、いない。ビートルズの「ルーシー・イズ・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」にあるように、"You're gone."というところまで「ない」を繰り返す。そういう完全な無があって、そのうえに、全てのものが有る。「完全な無」は、だから、「全ての有」を含んでいる。
あるいは、むかし聞いた河合隼雄さんの講演では、彼はこんな風に言っていた、無から全てが顕現している、わたしがわたしであるのはたまたまである、演台に飾られているこの花が花であるのも同じ理屈である、はぁ、あなたは花をしてはりますかそうですか、えぇ奇遇ですねぇ、わたしはわたしをしているんですよ。(彼は、やわらかい京都弁で、えんえん冗談を混ぜながら話す人だった。)
禅宗では「無一物中無尽蔵」と言ったりもするらしい。「なにもない」のなかに「すべてがある」。
最近で言えば、ミニマリストとか断捨離とかこんまりとかも、このへんが源流にあるんだろうかなとも思う。
理屈は置いておいて、「もともとなにもない」という言葉は、時によってはなんだか耳に心地よく、ほっとする気になる言葉だと思う。
ひとはもともと何物でもないし、いつのまにかなにもないところから来て、いつかはなにもないところに還っていくものなのだ。