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学校で人格形成しちゃダメ。って思うんだけど....



「自分らしさ」



いわゆる

「個性」




最近、個性だなんだと、
よく耳にします。

「個性豊かな生き方を」
「自分らしく生きよう」
「個性を抑えるな!」
「個性を活かす」
「個性を伸ばす教育」
「自分のあり方をみつけよう」
「自分らしさ」
「自分らしさは武器だ」

個性、自分らしさを本当にわかってるのかは謎ですが、
最近流行ってるっぽいですね。

学校、企業、NPOとかのキャッチコピーでよく目にします。


今回は、その中でも学校のお話です。

子どもたちの心が形成される小学校や中学校では、
ほんっっっとうによく耳にします。

というか、

最近、学校現場が変わってきて。
「時代遅れじゃね?」ってなってきている気がします。

PTA、つまり保護者たちの意見が
大きく反映されるようになったり。

「個性」や「自分らしさ」という言葉が
世間に認知され始めたり。

「いじめ」などの問題も浮き彫りになってきたりと。


「人間性」「自分らしさ」「個性」


いわゆる「人間」と言われるところが、
学校で問われているんですよね。

なので、今回は
「なぜ学校で個性が問題になってるのか?」
について考えていきたいと思います。


今日のテーマ:
学校で個性が問題になってるのはなぜ?









早速結論からいきましょう。

個性が問題になっている理由は

「学校」が「工場」を元として作られていて、
なおかつそれが「200年以上も変わっていない」からなのでは

と思います。

学校の原型については、色々と諸説あります。

ですが、その中でも私が注目しているのは、
「イギリスの教育システム」です。

それではちょいっと、タイムスリップしてお話を。


さかのぼること19世紀後半。

あるところに「ジョセフ・ランカスター」という方がおられました。

彼は「効率の良い教育システム」で、画期的な発明をします。

その名も

「モニトリアル・システム」

です。

簡単に言えば、先に教わる人(モニター)が、他の生徒の先生になるシステムです。

これを行うことで、先生の数が少なくても、より多くの生徒に教育することが可能になりました。

なんせ、先生が一気に増えるんですから。

そして、この時、生徒をグループに分けて、
先に教わった人に割り振ったりしました。

なので、クラスの起源とされています。



そして、もう一つ面白い教育システムが生まれます。

その名も

「ギャラリー方式」

と言います。

サミュエル・ウィルダースピンさんが考案

この方法では、階段みたいな場所に集まり、
前にいる先生から一気に教わります。

生徒も、周りの生徒を見ながら学習を進められます。

一度の講義で多くの人に教えられるので、
とても効率のいい教育法でした。




そして、「モニトリアル・システム」は、
当時最先端だった工場の分業システムを教育に応用しました。

なので、その効率の良さから、イギリスに一気に広まりました。

そして、1862年イギリス政府が、
この二つを合体させました。

より効率的に教える・管理するために
同じ年齢でクラスを作る「学年制」が生まれたりしまいた。

ですが「革命」というほど大きく変わることなく今も使われています。



読んでくださっている方は、こう思ったでしょう。

「時代遅れだろうが!!!!!」と。

実際、これが生まれたのが1862年。

そして、今は2024年。

つまり、もう250年以上も変わっていません。

そうなんです。

めちゃくちゃ時代遅れなんです。



もっと言えば、この教育方針は「個性ガン無視を前提」
として作られています。

モニトリアル・システムは、工場のシステム発祥ですし、
ギャラリー方式も、効率的な教育法ですしおすし。

その頃は、産業革命の時期でもあります。

第一次が終わって第二次産業革命だったかな?

なので、めちゃくちゃその頃評価されたっぽい。

まんま工場システムだったんですね。

ストレートにいうと

学校は「大量生産システム」が起源

ということです。



ここまで、教育の起源について話してきました。

その内容としては、
「学校は大量生産システム」だったんだよ。と。

ですが、私はこの
「学校は大量生産システム」には、反対していません。

教えるならば、これ以上効率のいいことはない。

言葉を教えるなら。数学のやり方を教えるのなら。科学を教えるなら。

これ以上に、効率のいい方法はないでしょう。

もはや効率を突き詰めた先にあるのが、
今の方法と言っても過言ではありません。


先ほどから「効率」という言葉が
連打してることをあまり良く思わない人がいると思います。

「オマエ、最初の個性の話はどうなったんだ!」
そんな声が聞こえてきます。

ですが、私が言いたいのはここから。


私は「教える」ということには、
この「工場システム」は最高だと思います。

ですが、「教える」に「育てる」は、加えられない。


私は、ずっと引っかかっていました。

なぜ「教育」という字を書くのか。

なぜ「教える」に「育てる」と書くのか。

でも最近、
引っかかってた理由がわかりました。

まずは、意味を考えましょう。

「教える」=知識を教える
「育てる」=人間を育てる

わかりますか?

綺麗に矛盾してることを。

だって、「教」「育」って、
「いろんな知識を教える工場」に
「人間性を育てる」
ですよ?

いやムリがあるだろうが!と。

どう考えてもムリだろうが!と。

なんでこんな無理難題をぶち込んだのか!と。

オマエは水と油を混ぜれるのか?と。

そうツッコミますよね。

私も盛大にツッコミました。


矛盾してるから。

その一言で、教育がいかに難しいものか理解しました。

そもそも、「教育」に「育」をつけた時点でアウトだったんです。

工場では、「作ること」しかできない。

工場では、「育てる」ことはできない。
できるはずがない。

工場は全部同じものを作るから。

個性は人それぞれだから。

人間は人それぞれだから

工場だと、人間性を「作ること」しかできない。

工場で人を育てることはできない。

なので、

今の学校で人を育てるというのは、
ムリなんじゃないかな?

というのが私の意見です。





なのでこれが
「学校で個性が問題になっている理由」
なのかな?と思います。


まとめるとこんな感じ。
⬇️

油と水は混ざらないように、
工場と人間性は混ぜられない。

でも、学校でそれをしようとしてる。
そりゃあ、ムリだわ。

by 風山文






あとがき

思ったことあれば、コメントにお気軽に書いてください!

「本をめくることばかりしている学者は、
ついにはものを考える能力をまったく喪失する。
本をめくらないときには考えない。」
フリードリヒ・ニーチェ

私が今回書いたのは、あくまでも私の意見と、知識のみ。
参考程度に抑え、自分の意見を考えてみてください。

それに、
全く違う人生、全く違う経験、全く違う場所で生まれたのに、
ここで会えているんです。

そんな人の意見、聴きたいに決まってますから!
私じゃ考えつかないような意見だと思うし、ワクワクしています!

感想も、OKです。
同じものを見ても、違う意見が出ます。
違う人間なんですから。

自分の日常は、他人の非日常
自分の常識は、他人の非常識



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