見出し画像

(30) 君子 ー 確かなもの

取材ロケは、これがあるから少々厄介である。

スタッフは、車酔いの薬を勧めたり、時々車を止めて君子を車外で休ませたりした。いつもなら長距離のドライブも平気な君子であったが、昨夜はいつにもなく念入りに進行表を自らチェックして、ほとんど睡眠時間がとれなかった。先方との約束の時間は午後1時であるから、それ程ゆっくりもしていられなかった。君子は腕時計に目をやり、
「木村さん、あとどれぐらいかしら」
「4、50分だろう。少々遅れても仕方ないすよ。この山道だし、連絡したくても先方には電話がないんだから・・・。気にしない気にしない。多分、時計もないと思うよ、だからいいんだよ。君ちゃん、ゆっくり休んでいたらいいから」

久田君子の勤めるオフィスゼロ1は、近頃では5本の人気番組を担当する中堅のTV番組制作会社である。君子はそこで、「スーパーキャッチ」という、日曜午後九時の重要な枠を担当するディレクターである。「スーパーキャッチ」という番組は、時代と正面から向き合って、挑戦しながら生きている団塊の世代を紹介する番組である。平均視聴率12%という数字は、かなりのものである。視聴率を稼ぐ有名タレントを出演させるわけでもなく、ディレクター自らが出演し素朴な何故を投げかける近頃では珍しいシンプルな番組であった。人気の秘密は、演出のない自然さと、滲み出る真摯さであろうと専らの評判であったが、君子の知ったかぶりのない謙虚さが、視聴者に好印象を与えているとの評価もあった。

「スーパーキャッチ」のスタッフたちは、もちろん全部が取材ロケということで大変であったが、何よりも大変なのは企画であった。担当する人物を選び出し、テーマ・コンセプトについて深いミーティングを繰り返すという毎日であった。
「君ちゃん、この峠が最後だよ。あの白樺林を右に入って行けば現場到着だ。気分悪くないかい?」
木村はプロデューサーであるが、何でも屋でもあるのだ。今日のロケも自ら運転をし、スタッフが働きやすいよう気を遣った。君子は木村の存在が有り難かったし、心強くもあった。
「木村さん、O.K.O.K。もう平気ですよ。本番が近くなると、私、ちゃんとするんですから」
「いやぁー、大変だったでしょう。お疲れ様でした。遅いんで心配して出てみたところですよ」
今日の取材相手の百瀬健太が途中まで迎えに出てくれていた。
「まぁ、安全な所だけど、初めてだとどこで曲がればいいかよくわからないからなぁ」と、陽気に出迎えてくれた。

百瀬健太は小説家である。郷里が長野県と言うこともあって、5年程前に休筆宣言とともに東京から移り住んだらしい。電気も電話も引かずの生活であるらしく、最初はとても不便だったとのことである。直径が30センチ程ある丸太を組んだログハウスは、辺りに溶け込んでいて、丸太小屋を建てる必要最小限の空間以外は、自然の雑木林がそのまま保たれていた。スタッフが到着するのを待っている間、百瀬は薪作りでもしていたのだろうか、斧とチェーンソーが庭に出されてあった。百瀬と君子がログハウスの階段に腰を下ろすと、カメラは回り始めた。
「何って言えばいいのか、僕らの世代は役割というかそういう意識が強くあって、自らをどう活かせばいいのかってこだわっているところがあると思う。僕の中にそれが強くあって、20年間東京でマンション住まいしながら小説を書いてきたわけです。年を重ねるごとに、言葉が自然に出なくなることに気づいたんですよ。まぁ、考えても見れば鉄とコンクリートの箱に住んで、15階までエレベーターで昇り降りしてたら、言葉を失くすのも当然だと思うし、第一、感じることがなくなるんですから、言葉以前の問題かも知れないな」

君子は感心しながら、とても自然な表情で百瀬の語る様子を受け取った。
「百瀬さん、実際20年の東京での創作活動の中で、作品にそういった変化が表れたんでしょうか?言葉が足りないとか、表現が生き生きしていないとか」
百瀬は少し考え込む表情をしながら、
「残念なことに、僕らの仕事というのは直接読者からの生の声というのは聞けないですね。せいぜい編集者の印象というものを聞くぐらいのことです。これは参考になりません。自分の中で、やっぱり少し納得がいかないとか、何かが違うって思い始めると、その思いが大きくなっていくわけですよ。実際、僕の作品は少しずつだけれども、ずれて行っていたと思います」
「何が、何がずれるのでしょうか?」
君子は素人っぽく聞いた。

「困ったなぁ・・・。けど、率直でとても鋭い良い質問ですね。正直言って、僕にもはっきりとわからないんですが・・・。例えば、エレベーターで26階まで一気に上がったりしている人間に、階段を一段ずつ上っていくしんどさっていう実感はないと思うんだ。うまく言えないけど、僕の言葉は鉄とコンクリートの匂いがするようになった」君子は、百瀬がそう言い終えると、立ち上がり地面をかかとで2、3回コツコツするしぐさをすると、「だから、この土と木の匂いのする場所へ戻りたい、そうしてまず実感することから始めたかった。・・・そう言うのって、原点に戻るってことなんでしょうね。人の生活のするという原点・・・百瀬さん、そう理解していいんでしょうか?」

百瀬は照れた様子の笑顔を見せながら、すっと立ち上がり、薪にする為らしき倒木を指して、「これ、2、3日前に森から引っ張って来たんだけれど、よーく見てみてください。倒れて1年程放ってあったんですよ。ここに何かの種が落ちて、芽が出てるでしょう?一つの生が終わるのと同時に、新しい生が始まろうとしている。ちょっと薪にしてしまおうと思えないですよね。こうして放っておいてみようと、今思っているところなんです」君子は驚きの目をしてしゃがみ込むと、新しく出ている芽をじっと見つめた。「百瀬さん、これは凄いわ。東京にいたら絶対に見られないし気づくことがないですね。東京で・・・凄いと言えば高層ビルの高さとか人の多さぐらいですよね。ここでの凄いって言葉や実感は、こういうことなんですね。私、百瀬さんの気持ち、わかる気がします」「そうですか。そりゃ嬉しいですね」百瀬は満面の笑みを浮かべながら、「これが第一歩ですから、これから何かが始まれば良いなと、思います。今、僕は野菜を作ろうと思っているんですよ。自給自足とか、有機とか無農薬とか正面切ってという訳じゃなくて、そんな知識僕にはないから、ただ種を植えて自然に従ってやってみようと思っているんです」君子は百瀬と並んで辺りを歩きながら、「生意気ですけど、きっと百瀬さんの文章、変わりますよね。私、変わって欲しいと思います」「いやぁ、それはわからないな。それが目的ではないですから・・・。何て言うか、僕の中から・・・そう、忘れかけていたものを取り戻そうと思っただけですから・・・。文章のことはいいんです。それに、まだ書きたいという気持ちが湧いて来ないんですよ」

柔らかな春の陽の中で雑木たちが、枝の先々を薄っすらと若緑色にし、一気に芽吹きかけようとする気配を感じさせた。林を抜けてくる風は、一段と厳しかった冬のものとは違い、どこかしら優しさを感じさせた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?