加瀬野 洋二

場末のカウンセリング・ルームで心理臨床を生業とする老人である。そろそろ遺言を書かねばと…

加瀬野 洋二

場末のカウンセリング・ルームで心理臨床を生業とする老人である。そろそろ遺言を書かねばと、原稿用紙に 向き合う事にした。パソコンも操れない老人の為、心許せる方にこのnoteの管理を託した。

最近の記事

(142) ポジティブであるということ

信じてはいないが、陰陽道によると”八方塞がり”の年というのがあるらしい。「どの方向に向かってもすべて不吉の結果を招くこと、どの方法も塞がれてしまってどうにもならない」と、説いている。 これでは困るだろう。陰陽道でいうその年は、行動せずじっと耐えて過ごさねばならないということになる。次のように対処すべきらしい。「あまり新しいことには手を出さず、控えめな行動で穏やかに過ごし、しっかり足元を見つめ直すのがよい」とあり、”八方塞がり”の年を乗り越えた際は、飛躍度が変わると添え書きが

    • (141) 仇を恩で返す

      「ありえないなぁ・・・。今まで聞いたことがねぇ」 なんてひと言で片づけて、目を瞑って次へ行ってしまいたい複雑な気分になる。複雑というのは、重くて深い貴重で尊い言葉であることが一瞬でわかりながら、とても近づけるような自分ではないことで、知らないふりをしたいのだが、そうもいかないかなと前へも後ろへも身動きが出来ないで、固まってしまう。 落語と講談の深さ・凄さを習ったのは愚息からであった。7・8年も前のことだろうか、その入口は立川志の輔師匠であり神田伯山先生(当時は二つ目で神田松

      • (140) リフレーミング

        何かいいことがあったわけでもないのに、今日は気分が良くて少々嫌なことが起きても大丈夫って日が時にある。そんな日に限って、昼過ぎあたりから気分が曇って「なんで?」っていうことになったりするものだ。 「いいことって長続きしないな」 と、落ち込み、ひと言呟くことになる。まぁ、考えてもみれば気分の良い日なんてそうざらにあるわけではないから、せっかく朝良かったから、せめて今日明日ぐらいはその調子でと思うからだが、大いに残念なものだから「長続きしないものだ」と”落としどころ”とすること

        • (139) 覚悟

          「ほとんどの人間は、実のところ自由を欲しがってはいない。なぜなら、自由には責任が伴うからである。ほとんどの人間は責任を負うことを恐れている」フロイト博士の言葉である。 この夏、パリオリンピック・パラリンピックが開催されたばかりであるが、確かフランス国旗の「青・白・赤」の三色はフランス革命時にスローガンとして掲げられた「自由・平等・博愛」を象徴するものと言われている。ここに掲げられた「自由」は、フロイト博士言うところの欲しがっていないと矛盾しているかのように見える。私たちは二

        (142) ポジティブであるということ

          (138) 隙あらば・・・

          隙あらば冗談のひとつもとばしたい人っている。そんな人のとばす冗談がなかなか面白くて、つい吹いてしまう。そればかりか、そのタイミングたるや絶妙である。そんなタイミングを虎視眈々と狙っているなんていう人生の楽しみ方ってちょっとばかり粋である。きっとエネルギーが高く、好奇心旺盛な人に限られるだろうと思う。 その「隙あらば・・・」だが、”隙”が大きな問題となり、私たちを悩ませることがある。家具の隙間にホコリが溜まっているが、掃除機のノズルが入らなくて気になり眠れない・・・。これも”

          (138) 隙あらば・・・

          (137) 自己受容

          今のところ尿酸値が高いぐらいで、その他病気と言えるものはない。とは言いながらも健康診断に行かないことにしているから、病気が隠れているのかも知れない。それと比べて、「精神的に健康」であるとは、どういうことを言うのだろうか?と、ふと思う。これが、なかなか難しい。でも、本来なら見えて来ないとクライアントをどう伴走するのか、が定まらないから困るのだけれど・・・。たかだか私の仕事など、クライアントの”主訴”という目立った”症状”に対処するぐらいのことで、結局、その人の「部分」と向き合う

          (137) 自己受容

          (136) 一度っきりを生きる

          「演じるのは一度っきり」だと、高倉健さんは言う。また、「何回もやれというのは出来ない。自分の中で感じられないものは出来ないよね」とも言う。うぅ~んと考えさせられる。なるほどと思い、「流石」だと泣ける。 テクニックを排し、現場に”心”を晒し、その役に全神経を集中し、心の底から込み上げるもの・感じるものをさりげなく表現するのだから、何度も演じることは出来ないのだろう。その通りだ。”人生”も同じなのだと思う。 今は亡き高倉健さんのことが大好きである。そうと言うのは、大学生の頃、

          (136) 一度っきりを生きる

          (135) 花の命は短くて

          花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき 美しい名言である。 林芙美子の『放浪記』は悲嘆と絶望をひたすら綴った小説で、何しろ強い衝撃を受ける。感動とは違い、強烈な言葉に圧倒される。同じ作家とは思えない美しい名言に涙がこぼれそうだ。 「人生は太く短く雄々しい」から生まれた名言なのだろう。「”生きて”いるからこそ、花の命の短さを嘆くことが出来る」と謳っているのに違いない。こんな言葉の紡ぎ方に心が震える思いだ。 生業上、たくさんの”生きる”ということのそれぞれの解釈を見させられ

          (135) 花の命は短くて

          (134) 「NO」と言えない

          まず、間違いなく誰しもの悩みだろう。 特に日本人はこれに欠けていると、国内外から揶揄されたりもする。これは「お国柄」であり、揶揄されることはそれほど気にしたり嫌悪することではない。 ただ、ここは当然「NO」でしょうという場面であるにも関わらず、その「NO」が言えない為に”流れ”を壊したり、自身が大きな”負担”を背負ったりするようなことは、避けたいものだ。だから、少なくともこの場面で「NO」と言わなかったとしたら、その先どう展開していくのかを注意深く考える必要がある。しかし、

          (134) 「NO」と言えない

          (133) こんなに私が努力しているのに

          「こんなに私が努力しているのに」 誰しもそう思う時がある。 当然だ。 職場・家族や周囲の同情・理解・協力が足りていないと感じたら、周りに対する「批判」の気持ちを「どんなに私が無理をしているか」と訴えたとしても当然かも知れない。 この訴えの無意識の目的は、相手に「罪悪感」を感じさせ、「何とか協力をしなければ」という気持ちにさせたいのだと思う。相手を変えたいのだ。 その苦肉の策である。 しかし、これはなかなか思うような結果が得られない。何故だろうか?お互いのやり取りが一段落す

          (133) こんなに私が努力しているのに

          (132) 「不完全」上等

          「人や社会から認められる人間でありたい」 「社会に貢献出来て、必要とされる人間・・・」 と、誰でも少なからず心で願っている。 ”自己効力感”と呼ばれている。それが無いと、ますます自分が”無力”で”不完全”だと思わざるを得ないこともあり、その反動からその”自己効力感”をずっと願っているものである。本当に人って健気だ。 その願いは例外なく誰しもの願いであり、決して間違った願いのはずはない。しかし、気をつけなければならないことを多く含んでいるから、漠然とそれを願い生活するのでは大

          (132) 「不完全」上等

          (131) 携帯電話 - SNS

          携帯電話がなくてはならないものになった。 時代は変わったし、また、携帯電話が時代を大きく変えたと言える。 日頃電車に乗ることがない。 そんな私だが、先日愛車の車検の為車を届けに行った帰り、久しぶりに電車に乗ることになった。座席には座らず、ドア近くに吊革も持たず立つことにしている。大した意味はない。昼間であるからなのか、利用者はまばらで全員座っていた。それがまた・・・全員スマホとにらめっこしている。これはちょっと面白い。照れ隠しなのか、じっと正面の人を見るのが躊躇われるのか、

          (131) 携帯電話 - SNS

          (130) 奇妙な反応

          人は自分についてよく知らない。 自分との付き合いが長いにも関わらず、「灯台もと暗し」なのか、人のことはよく解かったとしても、なかなか「自分のこと」となると・・・不思議なものだ。 自分の”感情生活”に気づきにくいからだと考えられる。だから、次のようなことが日常の中で起ころうが「何故だろう?」と足を止めて考えようとしない・出来ないからだと思う。 例えば・・・ こうした”不快な感情”を味わうことが、日常生活の中にないだろうか?もし、このような”不快な感情”による行動が時々ある

          (130) 奇妙な反応

          (129) 人生に彩りを

          「トマトは嫌いだからなぁ・・・」 いやいや、構わない。トマトが嫌なのなら、ちょっと高いが赤いパプリカを飾ったらいいのだ。それで緑・黄・白・赤とバランスのとれたサラダが出来上がる。新タマネギなんて血液をサラサラにする。楽しくてバランスのとれた旨いサラダの出来上がりだ。これがサラダの”彩り”だ。 その割に、人生と言うのは下手すると”彩り”が大いに欠けたものになり、サクサクとした見た目も”上手く”なくなるものだ。それ程までに”余裕”がないのだ。仕事で疲れ果て、帰る電車か車の中で自

          (129) 人生に彩りを

          (128) 黄昏れる

          過去に”拠りどころ”を求めるのは、自分のこれまでの人生を”肯定”したいからだと、さもそれで良しというかのように世間で言われたりする。大切なのは”ここの今”だ。”ここの今”から目を背けることの代償として、過去に”拠りどころ”を求めたりすることは痛い。”今”から目を背けないで欲しい。私は生業上、こうクライアントに訴える。 「お前、この頃黄昏れていないか?」 と、二つ上の先輩から言われて怖くなり、食欲がなくなり、肩の張りと頭痛を主訴に来所となった。三十八歳、男性である。弱っている

          (128) 黄昏れる

          (127) ちょいと散歩〜姉とチビ坊

          とうとう「ウルトラセブン」と言えないまま、「マーマーマンセブン」を卒業した。つい最近まで目が覚めてから電池切れで寝る直前まで「マーマーマンセブン」になりきっていたのに・・・。今はスーパーマリオ命のようだ。 姉は小学二年生になった。前歯が二本抜けている。相変わらず大声で話すことは変わらない。 「パパ、ライザップに通ってもらおうか?」 との問いかけに、 「そんなの通っても中身が変わる訳じゃないから、また夫婦喧嘩するだけだよ」 などと生意気を言うまでになった。大人だか子どもだかよ

          (127) ちょいと散歩〜姉とチビ坊