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(127) ちょいと散歩〜姉とチビ坊

とうとう「ウルトラセブン」と言えないまま、「マーマーマンセブン」を卒業した。つい最近まで目が覚めてから電池切れで寝る直前まで「マーマーマンセブン」になりきっていたのに・・・。今はスーパーマリオ命のようだ。

姉は小学二年生になった。前歯が二本抜けている。相変わらず大声で話すことは変わらない。
「パパ、ライザップに通ってもらおうか?」
との問いかけに、
「そんなの通っても中身が変わる訳じゃないから、また夫婦喧嘩するだけだよ」
などと生意気を言うまでになった。大人だか子どもだかよく分からない。

毎週月曜日は、姉とチビ坊二人とも私が迎えに行く当番という訳で、楽しみだ。チビ坊を迎えに行くと、園内放送で「〇〇くん、おむかえですよ」といっちょ前にアナウンスがある。すると、どこからか
「じいちゃ~ん」
と、やはり大きな声で走ってくる。見せたいものがあるらしくカバンを持ってきて、適当に折った飛ばない紙飛行機だったり、そこら辺りで拾った木の破片の時もあったりして、まだまだその世界で生きている。無頓着なのか、ワザとなのか、目の前で必ず左右反対に靴を履く。それに乗ってはならないと、知らん顔することにしている。左右反対でもどうも違和感を感じないらしい。平気な顔をして、よくしゃべる。

車に乗り込むと、シートベルトを自分でして座る生意気さだ。
「じいちゃん、きょうはどのみちとおる?ゆうびんやさんのみちにする?」
言葉が達者になった。あっと言う間だった。そんなことを言えることがうれしいらしい。

姉は放課後、児童クラブで時間を過ごしている。おやつの時間が四時らしく、それを食べた頃、お迎えに来いとのことらしい。朝七時半に登校し、夕方四時過ぎまで学校(児童クラブも校内にある)で過ごすことは、何だか
長時間で可哀想な気がするのだが。

この姉だが、”名言”を残したエピソードがいくつかある。ソフトクリームが食べたいとのことで、二人で歩いて出掛けたことがあった。二歳になった頃だった。途中、抱っこと言われたりすると重くなっているからこちらも命懸けだ。コンビニの前にポプラの大木があり、その根元にどういう訳かスズランが五・六本植えられていた。姉は思わずしゃがみ込んで優しく花を撫でる仕草をして、
「かわいい!みんなしたむいてるね。”はずかしがって”いるんだね、じいちゃん」
私は言葉を失ったが、無言では・・・と思い、
「そうだね、”恥ずかしがって”いるね」
と、返した。何を言うかビクビクだ。
何もなかったかのように私の手を握り、さぁとばかり
「アイス!ソフト!」
と、歌うようにスキップをした。
二歳が、”恥ずかしがっている”などと分かるのか?と改めて今の衝撃とも言える”名言”を味わった。この子の発言にはいつも驚かされる。ドキドキする。

愚息からの報告によると、三歳になるかならないかの頃だったらしい。画用紙を青色のクレヨンで塗ったという。
「パパできたよ」
と言うから、
「何ていう題なの?」
に対して、
「う~ん、”ぬるい海”」 
何という「詩的」な表現だ。これはただ者ではない。
いつも思う。何をどう考えているのか、一度聞いてみたいものだ。

「じいちゃん、えいががみたい」
と、言うから、「パウパトロール」というアニメを観に行くはめになった。
散々テレビ放送を録画してあるのを観させられているから、もう沢山だと思うのだが、そうも言い出せず、映画館に出掛けた。私は、なかなかよく出来ていて、いい話だったと感心したものだから、劇場を出る時
「どう?楽しかった?」
と、折角来たのだからと、いい答えを期待して尋ねてみた。
「こんなのさじいちゃん、”こどもだまし”だからね、まぁまぁだよ」
と、さっさとゲームセンターがどこかと探し始めた。誰も”子供騙し”なんて言葉を周りで使ったことはないはずだが、どういうことだと驚いた。喜ぶべきなのか、よく分からなかった。

チビ坊は姉とは大いに違う。”深刻さ”というのがまるでない。こちらは安心していられる。いつもニコニコと笑顔である。その裏では”楽しさ”を何からも味わってやろうと思っているに違いない。愉しんでいるのだ。だからいつも「ノった」状態であり、いい眺めだ。例えば、ピザをひと口食べて
「うまい!さいこう!」
と、両手を挙げて大声で叫び、持っていたピザを落とすのだ。何だそれは?といつもやることが不思議だ。何もかも楽しいに違いないのだ。

姉は三歳ぐらいまでいつも眉間にしわを寄せていた。みんなにとってこれが心配の種だった。赤ちゃんらしくないからだ。いつも何かを”感じとっている”様子なのだ。あらゆる周波数の情報を受け取る多くのアンテナを立てているに違いなかった。その結果だと思うが、大人以上のことを”理解””分かっている”ようなことを言う。(幼い頃の私もそうだったらしい)幼稚園に通うようになって、やっとチビっ子らしい顔でいるようになって、みんなで安心をした覚えだ。

私はチビッ子たちの親ではない。
また、昔のように若くない。
限られたことしか応援できない。
そんなこともあり、「遺言」のつもりでこのnoteを書き続けている。
チビッ子たちが高校生ぐらいになり、このnoteに目を通してくれたら・・・と、思い綴っている。

しかし、同じ親から生まれ、同じ環境で育っているにも関わらず、これ程までも姉弟で”異う”のかと思うと、生まれながらにしてきっと”何か”を持ってきているとしか言いようがない。

私の「心理学」も考え直してみないと、と思う。赤ちゃんと言うのは、決して”白紙”で生まれて来る訳ではないのだと・・・。



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