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(130) 奇妙な反応

人は自分についてよく知らない。
自分との付き合いが長いにも関わらず、「灯台もと暗し」なのか、人のことはよく解かったとしても、なかなか「自分のこと」となると・・・不思議なものだ。

自分の”感情生活”に気づきにくいからだと考えられる。だから、次のようなことが日常の中で起ころうが「何故だろう?」と足を止めて考えようとしない・出来ないからだと思う。

例えば・・・

1: 人から少しでも異論を唱えられると、腹が立ち相手に絡んでやり込めようとする

2: みんなが楽しそうにはしゃいでいると、その中に入ることをしないで身を引いて憂鬱になったり淋しくなってしまう

3: そこで思ったことを自己主張すれば、問題・事態は改善に向かうはずであるのに、黙ってその場をやり過ごしてしまう。しかし、後ほど決まって大きな不満を残し繰り言ばかり言う。

4: やるべき課題を期間内にやらないで、周囲に迷惑をかける。あとからその悪い癖を後悔して自己嫌悪することになる。

5: 人から「穏やかな性格ですね」とよく言われ、自分でもそう自覚している。しかし、一度怒り始めると取り乱し、あとから恥ずかしくなる。

(出典 『こじれる人間関係』 杉田峰康 著 創元社より)


こうした”不快な感情”を味わうことが、日常生活の中にないだろうか?もし、このような”不快な感情”による行動が時々あるのなら、一度考え直してみる必要があると思う。何故なら、これらの”不快な感情”があなたの中で主導権を握ったとすると、度々出て来て、人間関係・仕事の場面で「こじれ」ることに必ずなるからだ。

私たちの日々は必ず誰かがそばにいる。だから、「私」ひとりの気持ちだけ大切にする訳にはいかないという宿命の中にいて、これは大変だけれども、共に生きる以上相手の心理・気持ちを理解し考慮することも必要となる。
それと同時に”自分を知る”必要がある。それには先程の「例えば・・・」に書いたようなことが自分の感情の中にあるのなら、その働きを知りそんな自分であることを認めることが必要となる。そしてその”不快な感情”の質を見極めて欲しいと思う。その”不快な感情”は「ラケット」と呼ばれ「心のマフィア」などと言われ、私たちの精神生活で巧妙なやり方で圧力をかけ、あなたの本来の生き方を妨害してくる悪である。

その「ラケット」はどう生まれたのか?幼い時のある”感情生活”が起源となる。その後、親子関係のあり方が作用して、強化され、それから”習慣化”したものだと考えられる。幼児がよく抱く、ファンタジー(空想)だとか、親がそばにいることによって、「私は大丈夫」という”万能感”に深い関係がある。例えば、幼児と言うのは自身が何の力も持っていないということから、親の援助を期待して意のままに動かしたいと思っている。ある時、その援助が得られないからと「癇癪」を起してみたとする。親はすぐに期待通りに応えてくれ、「自分の願い」が通ることを経験することになる。「癇癪」を使えば親を負かすことが出来ると思ったはずだ。その後も成功し常套手段となった。また、ひとり淋しそうにしていると、振り向いてくれなかった親が、心配し手厚く可愛がってくれたとしよう。この子は学習したはずだ。「部屋の隅で淋しそうにすることは、親の気を引く一番の方法だ」と。困惑した様子をしたら、子どもに代わって親が問題を片づけてくれる。怪我などの時の「メソメソ」も効力を発揮する。

こうした経験からの積み重ねは、子どもたちの”非現実的”な考え方を強化していく。その結果、子どもたちはそんな自分の思考や感情には「魔法の力」があるのだと信じ込むことになり、その「ラケット」を無意識で受け入れ、使いながら生活をすることになる。要するに、「ラケット」は幼児のファンタジーから身につけた”感情的態度”であり、それを使うことにより「他人を変える」ことが出来るものだと強く思い込んでいる「魔法」ということになる。

困ったものだ。幼かった頃の自分の思いなど、ほとんど無意識でのことであり、今さらどうしたらいいのか?手のつけようがない上に、今の私たちの生活の中で散々悪さをされることになる。その悪さの影響は大きい。

そんな「ラケット」には・・・

1: 他人を変えよう、操ろうとの企みがある

2: あなたの精神生活や行動の自由を奪う

3:人はその下で不釣り合いな場に合わない感情反応を示す

4: それは少しずつ積み立てられて、次のトラブルへの準備を図る

(出典 『こじれる人間関係』 杉田峰康 著 創元社より)


やり切れないのは、幼い子どもにとってはひとりで生きられないのだから、親の愛情やストロークが全てで、親からそれが貰えるのならどんなことをしてでも手に入れなければ生きられなかったはずなのだ。だから、切ない。誰にとっても「自分」とは、唯一無二であり大切な大切な「私」なのだ。そんな自分を見捨てるわけにはいかない。「ラケット」を修正して”生き直し”をしよう。

そもそも「ラケット」は別のものに置き換えられた感情である。何故、置き換えたのか?場面・ケースに違いがあるから一様ではないが、一言で言うなら「本音」が何らかの都合で訴えられなかった為、別の(その場に不似合い)な感情・行動に置き換えて”アピール”したということなのだ。

「例えば・・・」の『2』で説明しよう。
みんなが楽しそうにはしゃいでいる。本音の感情は・・・「私には出来ない。みんなの中に同じように入れない。私をひとりにしないで」なはずである。確かに、それを言うことが何かの都合から言い出せないままの行動を、咄嗟にしてしまうということだ。表現されたものは本音を”隠した”ものだ。

誰もがひとつやふたつその「ラケット」を持っていて、いざという時に使っているし、使ってきたはずである。まずはじめに自身の使う「ラケット」を認めることだ。勇気はいるが先は”自由”になれるからだ。黙ることはやめて、いつも「自分の思い」は下手でもいいから告げることだ。周りを気遣うことは大切なのだが、それ以上に私の本音を語ることは、私をわかってもらうためには必要なことなのだ。人がそれによって私のことをどう思うか?心配ではあるが、「私がそういう者である」ことを明らかにしないと、それ以上の関係を作ることも出来ないと思う。

本当の私ではない私をわかってもらうことに精を出すことはない。丸ごとの私をわかってもらうことが・・・「ラケット」を卒業することである。



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