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(28) 罠-part2

月に一度、仕事で遠方まで出掛けている。片道140キロといったところだ。もうそんな歳ではないからと周りから言われるが、車で出掛けることにしている。車が好きだから当然ドライブも大好きである。

そこまでの道は半分以上が山道だ。峠も越える。途中、海抜1300メートル付近に分水領もあり、せせらぎが聞こえる川がある。原生林とは言えないが、一部人の手が入ったスギ・ヒノキの森と、手つかずの広葉樹の森である。四季折々の美しさを提供してくれている。そんな山道のドライブは、日々の仕事から解放され、つかの間の一人だけの時間だ。口笛のひとつも吹きたいところだが、近頃その口笛が鳴らないのだ。これは歳のせいなのか?全然音が出ない。歳を重ねるというのは、昔平気で出来ていたことが出来なくなる”喪失”なのだと、やりきれなくなる。

峠から向こうは15キロの下り坂である。ほとんどアクセルは踏まないで済む。急な坂ではギアを落とし、しばらくしてなだらかになるとギアを上げる。そう、私の車はマニュアルだ。ずっとアクセルは踏まないままだ。そんな延々と続く坂である。アクセルを踏まないまま下りきったところで、ごく稀にスピード違反の取り締まりをしていることがある。ご苦労様である。月に一回第二水曜日が私が出掛ける日である。「月にたった一回、普通の水曜日だぞ。しかも朝早くここを通るんだぞ。こんなもんが取り締まりに当たる確率はほとんどないはずだ」←(思い込みに相当する。「先読みの誤り」と言う思い込みの一つだ)
「どういうことだ!?」
前方で”止まれ”の旗が上がった。
「嘘っ・・・。峠越えから一度もアクセルを踏んでいないんだ。一切加速してないんだぞ。坂だろ!坂を自然に下って来て手を加えないのにスピード違反になるのか?自然にまかせる主義なんだ、踏んでないんだぞアクセルを・・・」←(アンガーコントロールが出来ていない)
と、声を大にして言いたい。
「お急ぎですか?」←(相手は丁寧で上等だ)
と来る。
「いや、別に・・・」
これが精一杯だった。50キロ制限のところ15キロオーバーであった。久しぶりの違反だ。
「たまには違反でもして、国庫も苦しそうだから寄付でもしておくか・・・」
と、気持ちを落ち着けた。
「これは”罠”だ。」←(生業を忘れたひどい認知の歪み、「決めつけ」と言う)
何も月にたった一日、普通の水曜日、しかも朝早く・・・こんな偶然に引っかかった。←(ほとんどひどい思い込みに相当。「決めつけ」「レッテル貼り」と言う認知の歪み)

”罠”な訳はないのだ。山道だからこそブレーキを掛けてスピードは控えめにして、安全であるべきなのだ。時に野生の生き物たちも自分勝手に横断するのだし、スピードさえ出ていなければ事故はほとんど避けられる。警察の方々も、こんな私のような輩がいるものだから、時々は違反者の摘発が必要となる。朝早くから大変なのだ。もしかしたら、これが自らが仕掛けた「気づけよ」という”罠”ならわかる気がする。

さて、その”罠”part2。
「国家試験に落ちた。これで私の人生は終わりだ」「人から同情されるのなら、死んだ方がましだ」

この”罠”を仕掛けたのは、まさか警察ではない。こう思うあなた自身が仕掛けているのだ。これらは非建設的、または非合理的価値観を物差しにして事柄を測っているのである。国家試験に失敗したことは確かに事実である。だからと言って、これが人生のおしまいということには断じてならない。気持ちはわかる。それだけその試験に長い間努力し賭けて来たに違いないから辛いだろうが・・・。人生というのは、一つの重要だと思われる試験の為だけにあるものではないのだ。多様な道がある。狭い視野で考えてしまわないことだ。

「人から同情されるなら死んだ方がましだ」
そうか、「人から同情される」・・・まずこのことが耐えられないのである。同情されたくない・・・これは「同情される者のこと」をあなた自身が蔑んでいるのだ。その裏には、「私はダメ人間で、人から馬鹿にされ可哀想なヤツだと思われている」という、自覚はなくとも思いが隠れている。その自身の思いを他者に投影(映し出す)して、「私は蔑まれている」と、あなたが決めつけていると思われる。”前提”がそれだから、これ以上同情されるのには耐えられない、というものだ。

人の目を見て・・・
ヤツは私を軽蔑している。
人が笑うのを見て・・・
ヤツは私を馬鹿にしている。
人に挨拶するが返って来ない・・・
ヤツは私を無視した。

こんなことになってしまうのだ。これで元気に生きて行こう、とはなり難い。辛いだけだ。これらが、自分で自身に仕掛けた”罠”なのだ。自身のやる気を削ぎ、気分を落とし、否定し、力を奪い、やがて絶望に追いやる。全てこれらは”自己否定”に繋がる。元々”自己肯定感”の低さから生んだ”罠”が、”自己肯定”どころか”自己否定感”を増大させる負のスパイラルに落とし込むのだ。そのスパイラルは、”自己肯定感”の低さ→自身への”罠”を張り→”自己否定感”を増大→”罠”を張り・・・の悪循環を生み出すこととなる。

先程、私はスピード違反で捕まったと書いた。その時の事を思い出して欲しい。たかだか単なる違反に過ぎないんだと、反則金で済むことだ、これは決して”罠”なのではない、と自身に”自覚”させた。ひどい思い込みをしていたが、その直後に自身の”認知の歪み”であると認めた。歪んでいることを”自覚”にまで持って行けば良いだけのことだ。「そうだ、思い込んでしまった。これでは不幸だ。どう書き換えたら良いのか?」と考えたら良いのである。
これは一つの習慣であるから、慣れるまでやり続けることが自分のものにする近道だ。

私たちは誰しも、相当思い込んだまま生きている。思い込んでいるから生きて来られた、という側面もあるのだが。思い込まないことが理想であるが、思い込んでいるなら、それはそれで仕方ない。ただ思い込みが出て来た直後、せめてその思い込みの”罠”に気づいて欲しいと切に願う。「これで良いか?」「これで大丈夫か?」という眼を、ここぞという場面で自身の内面に向けることである。

私たち人間は、実は自信がないにも関わらず、自身を疑う眼を内面に向けないものなのだ。残念である。


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