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(22) 和える

「職場のあの人が恐いんです。私に向ける目つきがひどく冷たいんです。大きなストレスになり、辛くてやり切れません」

私が仕事上よく聞く訴えである。
確かに誰しも、学校のクラスで、職場でそんな思いから苦しんだ経験は一度や二度ではないはずだ。私たちが集団の中にいる限り、ついて回る大きな悩みの一つだ。苦しいし辛い。本当にやり切れない。

昔、学生だった頃、どうにも腹に入らない奴がいて、顔を見るだけでこちらの顔が歪むほどで、何か奴が喋ろうものなら退席したくなるほどの事があった。何故そこまで思ったのか、未だに理由がわからないままだ。あんな奴の為にこちらが辞める事はないし、どうしたものかと半年ほど悩みに悩んだ。私はいつも直球勝負的な生き方をしている。変化球で相手を惑わすような生き方は性に合わないのだ。元ジャイアンツの桑田投手が言っていた。「直球(ストレート)を活かす為には、良い変化球が必要なんです」だとしたら、”私の生き方”はまるで意味がないことになるのだが・・・。悩みに悩んだ結果、”はっきりと奴に言うぞ”と決めた。私は直球勝負に出た。
「理由は色々と言いたくないが、お前が何とも受け入れ難い。なんでそんな風なのか?説明してくれ」
と、やってしまった。

晴れの日も傘をステッキのように持っている。
ズボンは裾がダブルでチェック柄。
シャツはアイロンの掛かったボタンダウン。
髭を生やしている。
そして靴は茶色のスリッポン。
指にはカレッジリング。

考えても見れば英国紳士風なのだ。それに私が嫉妬していただけなのかも知れない。私は全部彼の逆なのだ。一番腹に据えかねたのは、喋れば必ず上から目線で、世田谷言葉でキザなのだ。言う事の全てが保守的でタカ派発言であり、”日米安全保障条約”に賛成であり、女性・黒人を差別する発言をしていた。
「アルバイトしてるの?そう、フンッ」
と、勤労学生をあざ笑った。許せなかった。しかし、私の悩んだ末の直球は見事に打ち返された。
「僕はこの学校に来て良かった。今までに出会った事がない価値観を持ちいつも前向きで元気な君に会えて・・・。僕は君のように生きられないけど、応援しているんだ」
またこの言葉もキザで世田谷風で、何とも寒かった。
「しゃらくせえ、人を何だと思っているか振り返ってみろ。目線について考え直せ」
と、腹いっぱいの事をぶつけた。いきなりの直球を少々恥じた。この”オチ”をどうつけたら良いのかわからないまま、怒ったふりをしてその場を去った事を覚えている。実際は怒りどころか、売ったケンカが恥ずかしかったのである。それから奴とは三年生・四年生と同じクラスであったが、直球で言いたい事を言った事もあり、さほど気になる存在ではなくなった。逆に彼も、差別発言などを控えていた。愚かな昔話に過ぎない。若気の至りの一つだ。

「和(あ)える」という言葉がある。
和食の料理人さんがよく使われる言葉だ。その職人さんの言葉の裏には、「それぞれの食材の持ち味を損ねる事なく、お互いに尊重しながら一つにする事です。”混ぜる”とは違います」
と、主張があるのだと感じる。なるほど、合点がいく。こんな控えめな職人さんの前で、私はただただ小さくなるしかないのだ。これは、たかだか和え物も一つの料理に過ぎない、という話では絶対にないのだ。「いくつかの食材をその個性を活かし、同時に共に活かせるように一つにする」それに対応し、繋がるのだ。”集団”というのは一つの”和え物”だからである。

私自身の中にある様々なミクロコスモスの種たちは、必ず大きな事柄の中のマクロコスモスと繋がっているはずである。

私の「悩み」は、”自然”に目を向けたら全ての”解答”はそこに必ず存在する、という事だ。”集団”は本当に厄介で辛くて、思い通りに行かなくて我慢ばかりなのだ。私たちの永遠の課題でもある。そんな中で私たちは毎日を生きなければならない。抜ける事が出来ないのだ。

決して言葉にはなさらない和食の料理人さんたちの、「和える」という手つきの中に強い思いを感じ取れるのだ。「和える」のであって「混ぜて」はいけないのだ。私たちは集団というものを、尊重を忘れて個々を振り返らず、乱暴にも「混ぜて」見てしまっていないだろうか。どこにいようが、私にストレスを与える厄介で意地悪な奴は必ずいる。そんな奴はクセのある”セロリ”だと考えてみたらどうだろう。また、いつも公平で優しい人も”小松菜”だと思えないだろうか。あとは”キュウリ”と”レタス”と受け取り、さぁ、みんな個々を活かしてどんな調味料で「和える」か・・・。そう言えば「和える」とは”和”と書く。集団の”和”を考え、個を尊重しながらそれぞれの個性を活かす。大切な事を忘れていた。

自身の中で解決できない悩みは、決して一人で考え込まないで欲しい。電車でどこかへ行ってみるのもいい。神を信じていなくても構わない。神社を訪れて静かに佇んでみたらどうか。骨董市にでも出掛けて欲しい。料理番組をまるでレシピにこだわらないで、先生の手の動きを観察してみて欲しい。必ずそこに”解答”があるものだ。力まないで力を抜いて”自然”に身を委ねてみたらいい。

私たちもたかだか”自然”の一部に過ぎない。そんな私たちの内部で起こる様々な事(ミクロコスモス)は、大自然・大宇宙の(マクロコスモス)に呼応しているのだから。”解”はそこに必ずある。


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