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#8月31日の夜に/彼女の胸の痛み

今回は学生の痛みに寄り添う事が出来なかった話を書きます。

試験会場は静寂に包まれ、テストをめくる音以外は何も聞こえなかった。試験監督をするためその部屋に入ると、すぐに学生の緊張感とため息が伝わって来た。中を見渡すと前方にSが座っているのが見えた。真剣な表情で試験の問題を読んでいた。目が合ったような気がしたが、彼女は表情を変えず、 解答用紙に何か一心に書き込んでいた。

私の勤務しているバンコクのインターナショナルスクールでは13年生(高校3年生)になると全ての学生がIBの試験を受ける。IBとはインターナショナル バカロリアの略で、一言で言うと大学の入学資格試験だ。このテストで良い点を修めると、世界中、特に欧米の名門大学に進学する道が開かれる。2年間に渡るこのIBディプロマは非常に厳しいコースで、なかでも13年生が大変だ。いくつもの科目のコースワークやエッセイの提出期限を抱える学生達は文字通り、寝る時間を削って課題を終わらせ、最終試験に備える。 (2019年5月の統計では全世界で2926校、16万6465人の学生がこのIBの試験を受験した。)

SはIBの第2言語に日本語を選択した。彼女はフレンドリーで頭の良い学生だが、学習態度に問題があった。宿題をあまり提出しないし、授業もしばしば無断で欠席した。そして、彼女はいつも疲れた顔をして席に座っていた。 特に気になったのはS が時々スキンシップ求めてくる事だった。彼女は教室で突然、ハッグを求めてくるのだ。どう対応していいか分からなかった私はいつも彼女をなだめて席に座らせた。インターナショナル スクールでは握手以外で生徒の体に触れるのは完全にタブーだし(解雇はもちろん、訴訟の対象にもなる。)その時私はなぜ、彼女がハッグを求めてくるのか良く分からなかったからだ。愚鈍な私は彼女の行動は単なる気まぐれだと思っていた。

ある時、そんなSと偶然話す機会があった。「いつもどうしてそんなに疲れてるの?」と尋ねると、彼女は「寝不足なの。」と答えた。去年、彼女の大好きだった祖父が亡くなると、夜眠れなくなり、医者からもらった薬を服用したが、それでもなかなか寝付けないそうだ。「祖父が亡くなってから自分の感情が上手くコントロールする事が出来ない。時々自分の心が体から抜けてしまう感じがする。そして、心に思った事がストレートに口について、些細な事で親や友達と喧嘩してしまう。」と言った。

それについては思い当たる事があった。ある放課後、Sとスピーキングの練習をしていたのだが、私が1度時計を見たら、彼女は「時計ばかり見ないでちゃんと私の日本語を聞いて!」と突然切れた。その言葉にカチンときた私は、「時計を見たのは君のスピーキングの時間を計っていたんだ。放課後まで君の練習に付き合っているのにそんな言い方はないだろう。」と思わず叫び返した。今思えばその時も多分、Sは自分の感情をコントロール出来ず、思った事がストレートに口に出てきてしまったのだろう。その発言は薬の影響だったに違いない。なぜなら、彼女は普段は穏やかで、そんなきつい事を他人に言うような学生ではないからだ。

誰も彼女の痛みを理解していなかった。祖父を無くし喪失感に打ちのめされた彼女は、誰かに強く抱きしめてもらいたかったのだろう。Sは祖父の死だけでなく、試験のプレッシャーとも懸命に戦っていたのだ。文字通り、心身ぼろぼろになりながら…

夜も眠れない程苦しんでいる事に気付かなかっただけでなく、「怠け者」や「気まぐれ」というレッテルをSに張っていた自分を深く恥じた。    彼女の静かな悲鳴は誰にも聞こえなかった。もっと早くSと話をすべきだった… 大切なのは大学ではなく彼女の心だった。

試験監督の時間が終わり会場を出る時、彼女の長い黒い髪が見えた。相変わらず解答用紙に向かって何かを一生懸命書いていた…

罪悪感で胸がいっぱいになった。「ごめんね。」と小さくつぶやいて、そのドアをそっと閉めた。


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