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夏のひとりごと

夏休み2日目。

といっても昨日はほとんど新幹線の移動で終わったから、1日目みたいなもの。どこに行っても混んでて、暑いね。

今朝は、ゆるゆると起きて、遅めの朝ごはんを食べた。実家の朝ごはんの美味しさは別格。小皿がたくさん並ぶ。煮物の高野豆腐がふかふかで、朝からしあわせ気分。

かちゃかちゃと食器を洗って、クーラーのもとで本を読み漁る。めずらしく漫画もペラペラと捲った。読むとやっぱり書きたくなる性分だから、今これを書いていて、書き終わったらまた本の世界に戻る。

やわやわとした時間の使い方はもったいない気がしちゃうけれど、人生は生産性のあることばかりじゃないよね。

ずっと宿題にしているエッセイ、夏休みのあいだに書き切りたいな。来月、30歳になる前に世に出したい。もう2回ほど書き直してるけれど、まだなんとなく違って。書くってほんと大変だわぁと思いながら。

書いたものの行方は見えづらいから、「果たしてわたしの書いたものに意味があるのか……?」と思うことなんてザラにあるし、紡ぐことは常に葛藤とセットだ。

命を削るような感覚だし(言い過ぎだと思われるかもしれないけれど、そんなことない)だから、反応をもらうと届いたことが実感できて、泣きたくなるほどにうれしい。

バズるとかは苦手だし、なかなかできないけれど、書いたものは誰かの心のまんなかに、しっとり届くものでありたい。

先週はひさしぶりに「やさぐれ週間」だった。正確に言うと、2ヶ月くらいずっとゆるやかに悶々としていて、そのピークを迎えていた。

会社の仕事であたらしい肩書きをもらうことになって、目を向けるべきものが増えて。というか、たぶん今まで目を向け切れていなかったことに、向き合う必要性が出てきて。

取材、原稿、編集、SNS運用、分析、新コンテンツの企画、ちいさい会社だから人事関連、マーケティング、もろもろ。

考えると考えすぎちゃう性格だから(これはもう死ぬまでそうなんだろうと思う)うんうんと抱え込んで、ずぶずぶと沈んでしまった。

青山通りを歩きながらちょっと泣いて、お風呂でもわんわん泣いた。考えて考えて「もう!何も考えたくねー!ばかやろー!」ってなって、小説に逃げたりした。

昔から付き合いのある先輩が、限界のわたしを悟って、話を聞いてくれた。「お前はもっとまわりに甘えていい」「周りのことを考えすぎ」「ちゃんと頼んな。でも、俺も気づけてなくてごめん。」と。

仲良しの子とのLINEでのおしゃべりでは「素直」っていう言葉が出てきて、ああそうだよねと心に残った。

楽しい、嬉しい、面白い、苦しい、それは嫌だ、それは好き、そういうの素直に表して生きたいね。それで、相手の素直もふわっと受け止められるひとでありたいな。

いろんなバランスがちょっとずつ取れるようになって、強くなってきたつもりだったけれど、実際はまだ弱いところばかりで、きっとずっとそんなもんなんだなって気づけた。

かっこいいひとに出会ったり、すごいなあというひとと話すと、自分の至らなさにぶつかって、ずんと頭が重くなって淀んだため息をついてしまう。

でも、だれかに憧れるのと同じように、自分も誰かに憧れられていて、だれかに支えられるのと同じように、自分も誰かを支えていて、みんなそんな風にして生きてるよね。

突飛なアイディアをばしばしと出す経営者のひとが、このあいだぽつりと言った。「あることないこと言われて、信念をもって事業をやってきたはずなのに、これに意味があるのかと思った。」と。

堂々としているひとだって、その堂々は才能なんかじゃない。ぐっとお腹に力を入れて、背筋を伸ばして、堂々という衣装を纏ってる。でもそれが、まわりには強さとして映るんだよね。

自分じゃない人生はいつだって輝いて見えるし、選ばなかった人生はいつだって甘やかに思えるもの。でも、今日の自分は、今まで選んできたもののベストだから、信じてがんばりたいよね。

綺麗には生きられないし、ぐちゃぐちゃなこともある。でも、赤と青をまぜると紫になるとか、青と黄色をまぜると緑になるとかさ、ぐちゃぐちゃだからこそ見える色があるのだと思う。

たった一度きりの人生と、たったひとりきりの自分だから、ぐちゃぐちゃな中でいろんなものに触れたいし、知らない感情の色を知りたい。

自分を思い切り生きようね。
夏のひとりごと。

いただいたお気持ちはあたらしい本に使わせていただきます。よい言葉にふれて、よい言葉を紡げるように。ありがとうございます。