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「孤高を誇る」タイプのサバイバーとの付き合いづらさ

 外傷体験を受けてきた人のなかには、自分を孤高の存在に据え、どことなく誇らしげな印象を与える人がいる。自分は特別だからというニュアンスが呼吸のたびに漏れ出てくるような触感だ。

 誤解なきように言えば、サバイバーのすべてがそうじゃない。僕もまた当事者の一人だ。

 自分を語るときや、人の話に耳を傾けているとき、社会問題への構えなど、どんな場面でも、この独特の手触りを残すタイプの人がいて、それが無視できないものであったという体験を綴る。

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※以下の内容には二次加害の体験が含まれます。フラッシュバックの危険が有る方は画面を閉じてください。

 その人の体験を聞かせてほしいと、こちらから願ったわけじゃない。
カフェでコーヒーを飲んでいるとき、相手が突然、実父からの虐待について聞かせ始めたのだ。その人のやり方はいつもそうだった。
 語りながらヒートアップし、次第にカフェ中に響き渡るような大声になった。僕が打つ相槌や短いコメントに満足できないようで、たびたび表情を歪めたり、「あん?」「そうじゃない!」と怒鳴ったりした。隣席の客が不快そうに離れていった。

 その人は明らかに、僕に対して実父への陰性感情を転移していた。過去に交際した相手はその人を「自分だけが可哀想とでも思っているんだろ?」と皮肉り、それによって二重に傷つけられたとも語ったが、僕の心の中にもその交際相手が抱いたであろう逆転移感情が生じているのが分かった。

 しばらくすると、今度は僕が体験を話すように促された。
 ふだんの僕は、相手に耳を傾ける力があるかどうか見極めようとするが、その人がサバイバーだという理由で少々フィルターが緩んでいたのだろう、部分的な自分語りを自らに許した。幼少期から虐待的な環境を作ってきた親を、今度は自分が介護する番になってしまったことや、知人からの性被害のこと、加害者にも傍観者にも怒りが収まらないし、収めるつもりもないことを言い添えた。

 その人のリアクションはこうであった。

「まあ、あなたのケースはよくあることだけど、私はみんなと違うから」
「私はあれだけのことに耐えてきたから、あなたが思うような理不尽を理不尽とも別に思わないのよね」
「怒り続ける人って、よく自分のことだけにあれだけ必死になれるよね?そういう人に限って、人のことは無関心だよね?」
「だいたい、マイノリティのためにわざわざ周りが配慮してやる必要ある?」
「社会のこととか、私には興味ない。関係ないと思うんだよね。仏教はいいよ、この世に意味のあるものなんてなにもないって分かるから。あなたもニーチェをぜひ読んだら良いよ、あれは励まされるよ、私がそうだったから」

 自分はお前と違って賢いのだと言わんばかりに嘲笑するような、意地悪そうな表情を浮かべていた。整った顔のパーツを台無しにするには十分ななほど、内側から腐臭を漂わせているような様子であった。僕は思わず顔を背けた。「わたしは人間の顔面にしか興味がない」と吹聴するその人自身に、自分の表情の醜さなど気づきようもないのだ。

 
 その人が一人で耐えてきた虐待が、どれほど魂の在りかたに影を落としたかは想像に難くない。実父に刷り込まれた偏狭な価値観からは十分に脱却できていないだろうし、彼女が被害者であることは間違いないのだ。でも、他者の苦しさを矮小化し、自分のフィルターで歪めることは一般的な態度として許されるものではないし、こんな場面ですら自分は特別だと思いたいのだろうかと、呆れるしかなかった。


 ついでに言えば、僕はそのとき既にニーチェにも仏教思想にも触れていたが、大してエンパワーメントにならないことを感じてとっくに放り投げていた。「哲学書や宗教書を読んでる自分」に陶酔しているだけのその人には黙っていても良いことだと思ったし、どのみち僕の内面になど微塵の興味もないくせに、僕から体験を引きずり出し、自分と比較して馬鹿にしたかっただけなのだ。そういった些末な欲求からその人が解放される日は、たぶん、永遠にないのだろうなとも直感して、少々悲しくなった。

 その人は僕を友達だと思っていたようだし、一緒に旅行につきあったこともあったが、感性の合わなさや、会うたびにマウントされる不快感を僕にはどうすることもできなかった。僕は心のなかで、完全にシャッターを閉ざしていた。
 君に必要なのは、愚痴を聞きつつおだててくれるような都合のいいお友達じゃなくて、心理的に安全な環境と、専門的なセラピーだと思う。
 喉元まで出かかった言葉も、僕がわざわざ言ってあげることでもないと思い、呑み込んだ。

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外傷を負うということ、それ自体に当事者の責任はない。
でも、回復は当事者にしかできない。その意味で、回復の責任は当事者にある。

 ある本に書いていたことだ。一言一句は正しくないと思う。フラッシュバックにさいなまれる渦中でさえ文字を追える、数少ない本のひとつだった。
回復の責任、という言葉で自分を奮い立たせ、信頼できる医療機関に通うことにした。

 僕には親友がいる。彼女は僕と同じようにストーカーや性被害によるPTSDで苦しんでいたし、後遺症として耐え難いほどの男性嫌悪感情にも苛まれていたが、なぜか僕のことは嫌じゃなかったらしい。いろいろな話をしてくれたし、僕は夢中になって彼女の言葉に耳を傾けた。

 日本人女性の性被害経験率の高さ、暗数の多さ、レイプ神話に基づく二次加害がどんな場所でも生じうるような社会文化、男性による女性への眼差し、宗教観、家族観、儒教思想、女性にだけ不当に課せられる性規範の欺瞞、男性同士の階層闘争、性風俗産業、AV、憎悪のはけ口としての性的存在、聖母か娼婦か、女性から女性へのミソジニー、そして、現代の若者の冷笑主義について。

 彼女はフェミニストであった。彼女は、語ることのできない自分の苦しみが自分固有のものでなく、女性たちの長い歴史の中で、何度も何度も繰り返されてきたものだということを知っていた。個人的なことは政治的なことであり、だから、逆風を浴びながらも声を上げることは決して無駄でないのだと考えていた。

 性被害はまったく合理性のない虐待だ。被害者の頭の中には当然、「なぜ?」「どうして?」「何が起こっているの?」という混乱が生じる。彼女もそうであったが、学問としてのフェミニズムが、その混乱への答えを既に出していたのだという。

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 そんな彼女にさえ、暴言を投げるサバイバー(ともいえないくらい、性差別を肯定するような人物であるが)がいた。

「よく自分のことだけで精一杯になれるよね、私は無理だわ」
「わたし、シスターフッドとかよくわからないんだよね。一緒にいるなら女より男のほうが楽だし」
「フェミニズムとか、要は単なる押し付けでしょ?いろんな価値観のある人がいて、それでいいじゃん。」
「わたしって、あなたが言われてきたようなことた~くさん言われてきたはずなんだけど、怒りとか沸かないんだよね。あなたと違って鈍感なのかな~笑」 
 
 見当外れであるし、二次加害そのものである。ついでに言えば、その人物の状態のほうが、彼女の病状よりずっとずっと軽度であった。

 しかし彼女は、そんな暴言を吐く相手にさえ、相手の文脈や個人史、時代背景のなかで理解しようとした。明らかに彼女よりも軽度と思われる問題だけを抱える人の痛みにも、誠実に、多面的に理解し、受け止めようとするのが彼女の一貫した態度だった。それでも、というか、だからこそ、しばらくは体が動かせないほどに弱ってしまっていた。

 僕は、サバイバーにも色んなタイプがいることを知った。サバイバーのすべてが聖人君子なわけじゃない。そんな事分かってる。
 だからこそ、言っていいこととそうでないことがある。外傷体験を耐えてきたからといって、その人達が発する暴言や暴力によって不可逆的なダメージを相手に負わされるような状況がゆるされるわけじゃないし、被害者意識に固着することで、自分の回復の責任を放棄しているにすぎないような人物もいる。もちろん、人にはそれぞれ、段階とタイミングがある。今はまだそんな気になれないという人の気持ちが尊重されるべきなのは言うまでもない。
 でも、だったら、相手だってそうなのだと、どうして思えないのだろう?差別主義的な価値観を押し付けて、相手を相手でないものに捻じ曲げようとしているのは自分のほうだということに気づかないで、まるで自分のことをそのまま説明するかのような非難を相手に投げかけるのはどうしてだろう?
 
 ここに、自分を孤高で特別だと思い込みすぎることのピットフォールがあると思う。自分以外の存在に対して開かれた視点がないために、他者を矮小化し、自分と比較し、見当外れなジャッジを下す。そのジャッジは自分が見たい世界を相手に投影しているだけであり、自身をこれまで傷つけてきた二次加害者と同じ次元にまで堕ちてしまっているというほかない。そこから脱却する努力は、サバイバーにも最低限必要なのだと思う。


 優しい人ほど、賢く緻密な思考を持つ人ほど、残酷に傷つけられてしまうのは、サバイバー同士の世界でもそうなのだ。

 僕はこのフェミニストの親友のような人が増えたら、もっと世界が暮らしやすくなるのにと思うが、まだまだ、この社会で対話が不可能な相手との共生は難しい。

 


 

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