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プールサイド、溺れる桃
人間が理性を持っているのは、多分、死ぬことに打ち勝つためだ。だが、もし人間に理性がなかったなら、多分私たちは、死ぬことを気にしないで済んだのかもしれない。
チャプチャプと水の跳ねる音が聞こえてくる。莉理はそっと目を開けた。ぼんやりとした視界に星空が広がっているのが分かる。肌寒さに、身体がかってに身震いした。
寝そべっていたのは、プールサイドなどに良くあるビーチ・チェアだった。莉理はタイルの床に降り立ち、うんと伸びをした。傍らに置いてあった眼鏡をかける。視界は幾分かクリアになった。
夏、静かな夜に塩素のにおいだった。古びたプール。ここは学校だ。莉理は、なぜ自分が寝ていたのか、そしてなぜ起きたのかを考えようとして、ふと、星明りだけの暗闇の中から視線を感じた。
「……桃?」
「先輩、起きたんですね。もう9時回っちゃいましたよ」
満天の星空よりも綺麗な声。目が慣れてくると、莉理はその無邪気な後輩のいつもの笑みを見ることができた。莉理が寝てしまったことにはなんの咎めもないようだった。練習に付き合うと誘ったのは莉理で、体調不良を理由に足先しか浸からなかったにもかかわらず。
「ごめん、最初は座って見てたんだけど……」
「いえ、水泳フォームの確認ができたので。むしろ先輩が大丈夫ですか? 勉強の疲れとか?」
「いや、そういうのは――って、冷えちゃうね。まず上がろう。タオル取ってくるね」
莉理は濡れないようにプールサイドの端に避難させておいたバスタオルを取りに行こうとした。背中に桃の返事が聞こえ、プールから上がる大きな水音がした。
「よ、と……きゃ!?」
ばしゃん。
かかとに当たる水しぶきの感触に、莉理は慌てて桃へと駆け寄った。この学校のプールは古いのだ。あちこち老朽化していて危ないし、どこかの壁に穴が開いているなんていう話すらあった。
もしかしたら何か設備が外れたのかもしれない。足を滑らせそうになりながら、咄嗟に莉理はプールへと飛び込む。
……しまった、眼鏡をしたままだった。莉理はそう思いながらもがむしゃらに腕を伸ばし、桃の腕らしき柔らかな感触をつかんで、一緒に水面へと上がった。幸い、桃は見た目では無事なようだった。眼鏡もだ。
「はあ、はあ……大丈夫、桃?」
「は、はい……ありがとうございます、先輩……」
息を切らせる桃の頭やうなじ、肩などを触って、怪我がないか確かめる莉理。どうやらなんともないようだ。
「く、くすぐったいです先輩! 何するんですか」
「いや……血とか出てないかと思って」
「平気ですよ。それより先輩の手、あったかいですね」
「桃が冷たいんだよ……ごめん、上がろ」
手を握った莉理と桃がプールから出る。まだ、比較的暖かい更衣室に移動して、それぞれタオルにくるまった。肩の触れ合う距離で座ると、莉理は改めて、桃の冷たさを実感した。いっそもっと密着して、自分の肌で温めようとも思ったが、
「……? なんですか、先輩?」
桃の純真な瞳に、そんなことを提案する気にはなれなかった。もちろん、莉理に何かやましい気持ちがあるわけでもないのだが。
しばらく、更衣室の灯りもつけずにそうしていると、桃がくすりと笑う。
「ごめん、変なとこ触った?」
「いえ違うんです。なんか、子どもの頃、先輩のおうちでプールに入ったときのこと、思い出して」
「……あー、母さんが気合入れて、やたら大きいの買っちゃったやつか」
「はい、あの頃はまだ、私が全然泳げませんでしたから……」
「あったねー……というか、それ全然笑いごとじゃないでしょ。溺れかけたんだよ?」
「そうですね、その節はお世話になりました」
誤魔化すようにおどけて、桃がお辞儀をしてみせた。ふわりと、塩素に混じって桃のにおいがする。莉理は特に意識したわけではなかったが思わず息を止めて、ただ、はにかむような後輩の表情だけは、しっかりと眼に焼き付けていた。
「はあ……桃、あの日は2回溺れかけたよね。プールと、お風呂」
「あ、憶えてたんですね」
「忘れないよ。だって2回目は私もお湯に引きずり込まれたんだもん」
今度は莉理が茶化すようにそう言って、桃を睨んで見せる。すみません、と半分笑いながら謝る桃の姿は、子どもの頃とは大違いだと、莉理は思った。
初めて会った時の桃は、彼女の両親が亡くなったすぐ後だったこともあり、人格をなくしたように、とにかく無感情だった。当時、莉理達の通う小学校では、新入生は男女でペアになる仕組みがあった。だが桃の入学する年は女の子が1人多く、早生まれで2年生の莉理が、そのパートナーに選ばれたのだった。
給食や集会、掃除当番や下校など、莉理と桃は一緒だった。正直、子供の莉理にとってその突然の変化はとてもうっとおしいものであったし、実際、一緒に下校しなければならないところ他の子と帰ろうとしたり、何度も突き放してしまうこともあった。けれど、その度に、桃の瞳の奥にある本心が垣間見えるような気がして、完全にそうすることができなかった。
今思うと、子供の頃の自分は頑張ったなと莉理は思い返し、そしてなお、桃も良く独りでふらっとどこかへ行ったりしなかったな、と思うのだ。それは、桃が必死に恐怖と戦っていたからだと、莉理は考えていた。
自分には到底分からない「死」というものの重さを、桃は幼いころから背負わされ、そして生きているのだと。
「先輩、誰か来ます……!」
はっと我に返ると、桃が緊張の面持ちで声を潜めている。耳をすませば、確かに更衣室の窓から、懐中電灯らしき灯りがチラチラと見えていた。多分、先ほどプールで大きな音を立ててしまったから、警備員か宿直の先生が駆け付けてきたのだろう。
「桃、逃げよう」
「は、はい……!」
莉理は着替えを急いでバッグにしまい、肩にかけた。桃を手招きし、そっと更衣室から抜け出す。桃の気配を後ろに感じながら、プールの出口へ向かった。
しかし、念のため鍵をかけていた扉の隙間から懐中電灯の灯りが見えた。莉理は咄嗟に踵を返し、桃の手を取って、反対側へと走った。
「どうするんですか、先輩……!」
桃の、ギリギリの小声に莉理は答える。
「男子更衣室、壁に穴開いてるの知ってた?」
「ええっ!?」
目をまんまるにする桃に笑顔を向け、莉理は男子更衣室へと飛び込んだ。
2人は走った。石畳のようになった学校の外通路を通り、途中で鞄からスニーカーを取り出し、履く。そのまま学校の敷地の外へ出ても、まだもう少し走る。
しばらくして、桃が足を緩めたのを、繋いだ手から莉理は感じ、立ち止まった。
「だ、大丈夫でしょうか……?」
「うん、見られてない。誰かいたかどうかもわからないはず」
根拠はなかったが、莉理は桃を安心させるためにそう言った。桃は水泳の県大会を控えていて、あまり色々と考えさせたくなかったのだ。それでも、莉理は桃の希望をできるだけ叶えるために、こんな時間のプールでの練習に付き合っていた。莉理は、桃が初めて水泳を頑張ると言った時のことを、未だに鮮明に思い出せる。
「……さ、帰ろう。叔母さんも心配するでしょ。送るよ」
莉理は息を整えて、桃の方をじっと見た。その、乾ききっておらず少ししっとりとした髪が、夜風になびいて揺れていた。
「……はい!」
桃はその髪をさらに揺らすようにして頷いた。その笑顔の中に、莉理が最初に出会った頃の桃はいなかった。
莉理と桃は駆け出した。
その向かう先に広がる夜空は、やはり、星がきれいだった。
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