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表現のために「ネタ」以外に必要な1つ

 ネタを出す、ネタの取材をする、ネタをひねる……何らかのアイデアを表現として完成させるために、そこに必須とも言えるのが「ネタ」という存在だ。それは大抵の人にとって、表現やアイデアのための源泉であったり、そもそもの根本であったり、それがなければ始まらないというくらいに重要視されているものである。
 だから、表現のためにネタ探しに血眼になるし、いいネタがあると聞きつければ取材に走る。ネタは鮮度が命と言われることもあり、それは争奪戦になることもしばしばだ。ネタをつかみ取り、なんらかの表現として加工し世に出す職業は枚挙に暇がない。
 そういう人々にとってネタの有る無し、そのつかむ早さは死活問題と言える。またそういう職種でなくとも、様々な情報があっという間に広がる現代では、他者とのコミュニケーションの確実性という意味で、私達は1日1日のネタに本当に敏感になっている。

  けれども、特に「表現」という、自らの特色や意見などの表出において同じくらい大切なのは、ネタ「探し」だけでなくネタへの「態度」だ。
 お目当てのネタを見つけたまではいいとして、それに相対するあなた自身の態度は、いったいどういうものだろう。あるいはそのネタについて、あなたはどのような立場でものを言えるのか? そしてそれらはこの社会においてどういった効果となって表されるべきか?
 そういった、単にネタを見つけてきて提出するだけにとどまらない部分こそ、私達は今、私達自身の人間性として、問い直されているところでもある。そしてそのような部分にこそ、自己実現や存在の証明や生きる意味といった点での正解が秘められている。

 つまり、ネタを探すことはもはや呼吸に等しく容易なのだ。もしくはネタの出どころは固定化されすぎてしまったとも言える。私達が得られる情報というものは、最大限に自由化され、そして最大限に制限されきってしまった。だからその中から出られないのならばら、そして大抵の場合出られないので、ネタを持っているかどうかという点では、他者との比較は起こらない。
 そのため、こと表現において、知らないことを知らせるという手法では、もう意味がないものになってしまった。だから私達は、仕事から日常のコミュニケーションにいたるまで、そのネタに対する自分自身のスタンス、立ち位置という「態度」そして「解釈」をこそ、売りにしていかなければならないのである。
 それこそが、情報化の進んだ現代における、私達の自己表現の大いなる一端だ。表現のために、私達はネタ以外にそれへの態度を。
 そのことをきちんと自己分析することが肝要である。

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