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自らを「言葉」によって狭められ、しかし自らそれを望む

 人は言葉を使うから、言葉で人を分類するのが好きだ。夢中になると言ってもいい。あれこれと調査を繰り返し、属性を当てはめて、いろんな人を…自分をも定義する。定義して、満足する。自分はこうだと。用意された選択肢の中の1つになることで、安心すら覚える。
 動物にたとえたり、職業の適性や、アルファベットや、数字や、傾向、キャラクター。多種多様な方法で、私達は分類される。そういう様々なものを言い表す言葉によって、自分はこうだと定義される。言葉ははっきりしている。示すことが得意だ。だから私達はそれを好んで、自分というわからないものをカチッと決めるのに使う。

 多分、憧れがあるのだろう。言葉ははっきりしているから。自分という曖昧で見えないものと違って。もちろん、私達の体は目に見えるけど、自己や人格や人となりは透明だ。何色かもわからない。どんな形かも。
 だから、赤とか青とか黄色とか、丸とか四角とか三角とか、そういう言葉に当てはめたくなるのだ。「あなたは赤丸です」「そっちの人は紫ダイヤです」「日本人には緑四角が多いですね」「青三角と白十字は相性バツグン!」…こんなふうに。

 自分を定義されることは気持ちがいい。曖昧で、自分すら見えない自分というものを決めてくれるから。言葉にされれば、なんとなくそんな気がしてくるものだ。納得できる。言葉というものは目に見えないものよりもずっと信じられる。
 だから、私達のアイデンティティは言葉なのだ。言葉によって私達は、はっきりとこの世に存在するように思える。それが誰のものでも、どんな意図があるにせよ、私達は自分という極めて唯一無二のものを、言葉によって言い表されることを望んでしまう。

 オリジナルで、自由だった「自分」はそうして、言葉によって言い表せる範囲の中に、言葉によって既に定義されたものと同じになる。
 良いか悪いか、私達は自らそれを望んでいる。

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