見出し画像

糾弾のネット社会へ

 ネット社会で誰かが糾弾されている時、その是非や真偽や多少を問わず、私達は何かに気をつけようと思うはずだ。多くの繋がりが生み出す叡智と引き換えに、あらゆるつまづきが貶められる世界。そんな現代社会を当然のように生きることが求められる中で、私達は今や、見えない基準や、予想される価値、そして分からなくなっていく規範に、知らず知らず怯えている。

 この世界の糾弾が無くならないのは、私達の視線がそうやって不確かなものを必死に見ようとしているからだ。糾弾そのものやその後のこと、そして糾弾された人とした人に対する私達の視線は、ただただありきたりで中身がない。つまり、最初の糾弾が集団の意見の方向性を定める。誰もがそれに従う。そして言説や議論は、糾弾の判断基準などを取り上げて話が進む。

 しかし、この糾弾という現象はほとんど個人的なものにすぎない。なぜなら、ネットの繋がりの最小単位は個だからだ。そこにある全ての言動は個人からしか始まりえない。あるいは、個人的な感覚からのみ出発する。
 それを増幅するツールを、私達はこれまで使ってきたのだから。そのため糾弾は、必ずしも多くの人々の共感や感覚を根拠としていない。それにもかかわらず、糾弾はただただ肥大化していく。そして糾弾されている対象について、ほとんどその価値を問う言説へと発展する。たとえいわれがなくとも。あるいは、それほどまでの規模に発展させるほどのものでないにせよ。とにかく、口火は切られたら燃え尽きるまで進む。

 そういった「糾弾の社会」に私達は生きている。それをさも常識として。そして毎日、誰かしらの生贄を捧げながら。私達は糾弾の是非を問わない。ただただ、それは災害的な現象として忍従され、あるいは歓喜の中で受領される。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ。

※関連note


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?