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オリジナリティへのごかい ③直感

 オリジナリティという言葉に貼り付けられたイメージは本当に壮大である。それは崇高で、尊くて、認められれば本当にすごいものかのように思われている。だからこそ私達は、自身のそれをこの世に評価されることを無根拠に称賛する。

 だが、そういったオリジナリティへの認識により、オリジナリティそのものへの「ごかい」の1つが生まれてしまう。私達がオリジナリティというものを不必要に褒め称えることと、そうであってほしいという願いにより、私達は私達自身の「直感」を信じられなくなっている

 直感とはつまるところ「最初の印象」のことである。もしくは最初に思いついたイメージや方向性のことであり、要はあたかも、何かのしっかりとした考えを経て表出されてはいない何かということだ。直感は感覚的で再現性がなく、得てして当たり外れも大きい。だから、とても大切で大層なものであるオリジナリティを表明するに当たって、直感は往々にして大切にはされない。
 私達はオリジナリティを、自分のものであるのをいいことにこねくりまわしがちなのである。即ちオリジナルという評価されなければならない大層なものを、仰々しく紙への貢物かのように裁断へ持っていくが如き所業を、そこに求めてしまう。それはいくつもの儀式があり、伝統があり、時間がかかるものだと。あるいは辛いものだと。大変な労力のかかるものだと。そういうふうに、オリジナリティをごてごてと装飾したがる

 しかし、シンプルに分かりやすいオリジナリティに勝るものはない。
 なぜなら、それはあなた自身に密接したものだからだ。そもそも自分以外には分かりにくくて、全部を伝えることなど到底はできなくて、そして他者にとってはどうだっていいことを含んでいる。
 放っておけば無限にこだわって、こまごまとしてしまうのがオリジナリティなのである。他者に評価してもらうことを考えているのならば、そんなこだわりを推進することほど愚かなことはない。そしてこだわればそうするほど、オリジナリティは深みにはまっていく。
 いくらそれが自分だけのものと言っても、オリジナリティは深く検討されるまではまだ、その全容が本人にすら分からないものだ。そしてその「直感状態」こそ、そのオリジナリティを他者が理解できる限界値なのである。
 しかしあなたは、それが自分自身のものであることをいいことに、それを掘り下げたがってしまう。他者よりは断然簡単にそれを深く深く考えていくことができる。潜っていくことができる。オリジナリティの底へ。あなたにしか見えない光る何かを拾い上げに。

 オリジナリティを見る他の大多数の人にとって、そんなふうに潜っていく覚悟などできていない。誰が他者の海に深く潜っていこうと思うのか。そんな大変なことはできるだけしたくない。せいぜい、波打つ水面を眺める程度だ。そんな心理状況で、いきなり海の底に眠っていた遺物を見せつけられても、感銘を受けるほうが稀というものだろう。

 究極的には、私達は自分と他者が直感でしか繋がれないことを、理解すべきである。特にオリジナリティという、自分の内面への長い長い旅を伴っての表現の場合、それに他者が付き合ってくれるとは思わないことである。
 だから私達は、もっとオリジナリティの直感を信じるべきである。肯定して、それが適したものなのだと分かるべきである。長い長い旅や深く深く潜ることやあれこれとこねくり回すことは、オリジナリティにとって「改善を意味しない」
 良くなるとすれば、それはあなた自身にとってである。他者に向けての表現としては、むしろ質を落とすことに綱がる危険性を認識したほうが良い。

 それがオリジナリティへの誤解を解く、五戒の内の1つである。

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