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暇は無限にやってくる。それは

 ずっと暇だ。とにかく。だから暇をもてあそばないために、暇つぶしをする。潰していく。初めのうちは、それは上手く行っていると思うだろう。暇は潰そうと思えば潰せる。でも気づくのだ、それはあとからあとからわいてくることに。
 潰しきれない暇はどこからやってくるのかなどと考える暇もなく、押し寄せては潰されて、また押し寄せてくる。だから結局、私達は忙しいのだ。暇などない。休まるときなど嘘である。だって暇を潰さなければならないという強迫に、ずっと怯えているから。

 いつからか、人生には空白はなくなった。あるいは、空白は塗り潰さなければならないと、誰もが当然に思うようになった。それは常識だ。どこからかやってきて、この現在に定着した常識である。
 だからこそ、暇は無限にやってくるのだ。まるで潰されに来るように。その空白が産められてしまうから、私達が隙間を埋めようとするから、そんなものを作らないようにと願うから。
 暇を無駄なものとする価値観は、すっかり成熟した。あるいは、次の段階へ進んだ。つまり最初からそれを作らないように、できてしまわないように立ち振る舞うということ。空白の時間はいらない。暇は必要ない。そういうふうな精神性を含めて、私達はとことんまで、無駄を、暇を省くのである。

 でもそれは、反対に、暇を血眼になって見つけ出そうとすることにも繋がる。暇を忌み嫌うがあまり、それが見えてしまうのだ。予感してしまうのだ。「ああ、今この瞬間は暇だな」「ああ、また空白の時間ができそう」、そんなふうに。
 その嫌な気分を嫌だと思うままに、私たちは生きている。暇、空白、無駄、隙、そういうものを「いらない」と信じて。そしてまた、私達は犯罪者を追い詰める群衆のように、暇を見つけ出し、暴く。そしてまた、暇が生まれていく。

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