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真実のために、低評価を軽んじない

 自分に合わないからという理由で、何かを低評価にすることが批判されなければならなくなったのはいつからだろうか。自分に合わないからという理由で、その何かをこき下ろすこと、それが評価に値しないという感想を発表してはいけないと、誰に差し止める権利があるというのだろうか。
 私達は他者のことを気にしすぎて、それによってこの世界のことを気にしなさすぎている。せいぜい、この社会のこと、そして下手すれば自分の知っている誰かのことしか見ることができずに、世界の真実とか真相とか正義とかを見出そうもすることを、くだらないと吐き捨ててしまう。

 この世には自分の好き嫌いとそれによる認識と評価しかないからこそ、私達はともすればそれを乗り越えて、もっと大きくて崇高な判断をすることができるのではないかと信じられるのだ。つまり全ては個人的な認識だという、個人的な認識があるからこそ、その外側にそうではない絶対的な価値基準があると真面目に考えることができるのだ。
 だからその個人的な評価を、ただ「人それぞれ」とか「好き好き」とか言ってなんとなく言い表した気になっているのは損である。本当にあるかもしれない正しさから目を背けているのと同じだ。それは絶対に私達にとって役立つ何かなはずなのに、私達は私達自身で争うことに夢中で、それを追い求める余裕もない。

 個人的な感想は、確かにそれ以上のものでもない。そしてもちろん、それが無制限に許容されるべきでもないし、個人的な感想だからこそ別の個人的な感想とぶつかり合う当然だ。
 しかしだからといって、「それはあなたのものだから、私のものとは関係がない」という態度は間違いである。まして、誰にとっても関係がないからそれは結局無価値だという諦めの言葉は、クレバーでもなんでもない思考停止に過ぎない。

 真実は、どこにあるかはわからない。しかし少なくとも、様々に具体的なものを経験して、より分けて、よく考えていった先に、それは見出されるはずだ。
 だからその原資となる「個人的な意見」特に「何かに対する違和感」を、つまり自分に合わないからという感受性を、ただの好き嫌いの問題として思考停止させるのはもったいない。
 それは真実に気づくきっかけになるかもしれない。
 その嫌いの感情は、なお私達の探求を手助けする貴重な1つとすら言える。

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