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目的意識は「過程的目的」のために

 目的意識は持つべきものだが、何もかも目的のためになされるものではない。むしろ常に先にある「目的」のせいで、ともすれば私たちは「そのために」しか行動できないという縛りを課せられてしまう。
 すると私たちは、自分自身と「そのために」の間に繋がりを感じられないまま、ただひたすら目的に走っていくことを強いられることになる。

 即ち、目的意識とは大いに結構だがしかし、あくまでそれは「目的のため」に設定される。そしてそのためになされることは全て「~のための過程」となる。良く見ればこれは、頑張れる理由や効率的な最短ルート、そして当初の計画を忘れないための所作だろう。
 しかし目的は人を固執させる。そうなると人は、自分自身を目的よりも優先することになる。そうなってしまうともはや、目的意識とは己を強制させるだけの恐ろしい祟りとなってしまう。

 そもそも、ある目的とは自分のためにあるはずのもの。つまり「過程」なのだ。すべては自分が心地よくなるためにあって、現状が不満でも、無理していても、嫌でも、生きていたくなくても、それを解消する目的で何かをしていくことで、すべては報われる。
 そう思えるからこそ、私たちはなんらかの行動を起こす。それ以前の目的のためではない。ただシンプルに、自分自身のためというのが人生における目的である。
 その、最後の究極の目的だけは、もうどんな「過程」にもならない。「自分のため」にその次はない。だからむしろ、それ以外の目的はどれも過程になりえるし、言ってみればそうでしかない。
 目的意識とは、そうなると、究極のものではない目的――「過程的目的」すら自覚できていなかったり、もやもやしていたり、確証が持てなかったりする場合に有用な意識。ただそれだけなのである。
 結局、目的のために頑張る過程を好きだと言えなければ、私たちのモチベーションなど続かない。目的意識は、目的ではなくて、目的と言えるような過程に対して設定されているのであり、私たちはそういった、目的以外の、でも、目的のように見える過程に対して、行動を繰り返す。続ける。

 そのことを自覚できていると、自分自身の目的というのがぐっと、まさに自分と紐づいて、繋がって、自分事として感じられ。そして目的を達成することの意味と力と喜びを、自らの両手につかめるのである。

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