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「才能で食べていくのは難しい」の真意

「才」は誰かが持っているだけではダメで、もちろん活かされなければならない。ただ、もしその才がなんの価値のないものだったなら、それはその人の責任となる。残酷ではあるが、この世には、使える才と使えない才があり、それは時代によって変わる上に、基準もよくわからない。だから、才を発揮して生きていくとか、才で食べていくというのは難しいなどと言われるのである。

 しかし、才とはそれだけで価値が決まるものではない。それのみを評価されることによって輝くものではなく、それを磨く人々――即ち、才能を活かすとか、受け入れるとか、発揮しやすくするといった、周囲の扱い方込みで、価値が定まるのである。
 つまり、ある社会が才というものにまったく不寛容であるのなら、その社会における才はどんなものでも無価値である。才を発揮しようとすることも、活かそうとすることもタブーである。なぜならそんなもの、その社会は認めていないからだ。
 また、数ある才の中の一部だけを受け入れるというような社会においても、それ以外の才は無価値である。存在する意味がない。必要ないものと決められてしまっているからだ。

 このようなことから、才というものに向けられる大いなる偏見が、私達を苦しめることがあるというのがわかる。
 それは、才が使えるものかどうかは、それを持つ者に委ねられているのだから、すべては自己責任であると。才で生きていくことは個人の自由であって、社会はなんら関係がないことなのだと。
 けれども、実はまだまだ認められていない才というものがあり、その不遇は理不尽であり自己責任などではないにもかかわらず、不寛容な社会は責任を負うつもりもないというのが事実である。これが、才にまつわる大いなる不幸だ。

 実際のところ、個人に宿る才がどれだけのものであっても、社会がそれを認めねば、その存在は許されない。そのように仕組みができてしまっている。だから報われぬ才は、屍の山を築き上げる。そして、そのような厳しさを当然のように自己責任として片付ける考えも、まだまだ当たり前だ。
 才の価値は社会の評価で決まる。つまりそこに生じる自己責任は、本当はまやかしなのである。

 才はただ持っているだけではダメで、発揮され、活かされてはじめて輝く。しかしそのさじ加減が、才を持つ側にないのなら、「才能で生きていくのは厳しい」ということの意味は、実はかなり違ったものになってくるだろう。

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