既知と既知で未知

 我々は未知なるものにドキドキする。それを恐がりながらも、それに心惹かれ、気にせざるを得ない動物だ。だから私たちの身の回りには常に、未知なるもの、できるだけ創出されるよう整えられている。
 でも、未知とは、実際のところ「未知」ではない。それ単に存在を感じ取れないだけで、少しの作用で私たちの眼前に現れてくるものだ。見る距離や角度や考え方次第で、未知は未知ではなくなる。

 そのもっとも単純な例としてあるのが、未知は、既知と、それから既知が交わることで出現する、という事実である。
 私たちが普段から知っているものとものとがぶつかったり混ざったり交錯したり絡み合ったりした結果――そこに、未知が見いだされる。
 新メニューや、斬新なプランや、これまでにない計画、思わぬ視点の物語など、私たちが日常で目にする未知は、どこか異空間から出てくる何かではなく、もうこの世にあるあらゆる既知が、他の既知と組み合わさったものである。

 けれど、それはこうも言えるかもしれない。「その組み合わせを思いつくことが未知の発見ではないか?」と。即ち、これまで誰も思いつかなかったような「既知×既知」を新しい何かとして昇華できる技術や発想力が、まさに未知なる所業ではないか、という疑いである。
 それほどまでに、私たちは、私たち自身の可能性を信じていない。奇跡とか、神の所業とか、偶然とか、そういうものをどこかで必ず信奉している。しかし、既知と既知を組み合わせるその方法もまた、ほとんど既知であることに変わりはない。
 どの既知をベースにして、どの既知をワンポイントにするのか。既知をどれほど分割して組み込むのか。その既知を反転させてみるのはどうか。似た性質の既知同士を重ね合わせてみるたり、真逆の性質をもつ既知を無理やりぶつけてみたり。
 そういった、「既知的な手法」によっても、この既知と既知との組み合わせは支えられている。いうなればほぼ100%、既知によって、未知は作り出せるのである。

 そう考えると、この世は既知でしかできていないのかもしれない。私たちが本当に知らないことは、いわばないのと同じであり、無から有は生まれない。私たちが未知を発見するとき、それは少しずつ、既知の領域が増えていった最後の1歩のことを言うのだ。
 だから、未知をことさら特別視する必要はなく、恐れる必要もない。
 未知は、既知と既知によって出現する。だから常に、私たちは未知と共に生きているのだとも言えるだろう。
 私たちはそうやって、ふと現れ出る未知の気配を感じ取り、ワクワク、ドキドキしている。そうやって未知を楽しむことができるのもまた、人間である。

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