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「再確認」→「社会性」→「最高傑作」

 あらゆる作業や成果物において「再確認」という工程は誰のものだろうか。それは普通に考えればその作業や成果物を生み出した人間がするべきものだが、チームプレイが基本となる昨今において、再確認は、他人が担うことも少なくない。他者の視点を取り入れ、より良いものにブラッシュアップできるとの考えから、あらゆる作業工程の中で設けられる「再確認」には、作業者ではなく他者が介入することは珍しくないのである。
 しかし、再確認は他者ではなく、自分自身が行うからこそ本当に意味のある行為だ。それは、「もう一度今までやってきたことを振り返り、新鮮な気持ちでその作業や成果物を見る。するとそこに、作業中では分からなかった粗や間違いを見つけられ、それらを是正することでより良いものになる」……というような意味合いではなく、もっと重要なことを、私たちにさせてくれる作業である。

 この再確認という工程は、それが「粗を見つけ、より良いものにできる」から大切なのではない。再確認は、「私たちが他者になれる」ほぼ唯一の方法であることに意味があるのだ。自分自身の手で、自分自身の想いを込めて為した何かを、再確認という名のもとに他者の視点で見つめるという行為に、私たち人間にしか感じることのできない、大いなる精神性を見つけるる。つまり、この社会は他者との関係でなりたっているものであり、即ちほとんどの作業や成果物は自己完結ではなく、その他者との関係を考慮して為される。だから、「他者の気持ちを考えること」という精神性ーー社会性がそれには込められていなければならないというのが、破ることのできないルールであり、それに気づくことが肝要なのである。
 私たちが、単に自分自身だけの欲求を抱えて生きていけるのなら、このことは何一つ考える必要はない。しかし、実際にはそうではなく、私たちは嫌でも他者のことを、社会のことを考えねばならない。あるいは、そうしなければならない段階に、いつかは直面する。そのようなときに、この「再確認」という作業が、まさに直面している「他者」だの「社会」だのの意思を汲み取ろうとする試みの、大きな助けになる、というのだ。

 自分自身が行う再確認という工程を通して、その経験により、私たちは真の社会性を獲得する。そしてこれにより、真にこの世に通用する作業や成果物というものが完了できる……と、こういうわけである。
 無論、その前提としては「自分自身の想いで為す」何かが必要であり、その上で他者の視点による再確認という作業もしくは、それが分かるだけの経験があり、全てが達成される。
 好むと好まざるとにかかわらず、私たちはどこかしら「他者になる」ことをしなければならない。そのための訓練と経験を、「再確認」はさせてくれる。だから私たちは、再確認の役割を、できるだけ他者に譲らないべきだ。少なくとも、他者に再確認させることを当然と考えるようになってはいけない。
 そうして、その作業なり成果物は、よりこの社会に合致した、即ち評価するべき最高傑作へと近づく。

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