自分よりも他人のことを信じられるようになった世のクオリティ
現代的クオリティの根拠とはマンパワーである。つまり「いいものは売れるという幻想」ではなく「売れたものがいいものである」ことが、正義となったということだ。
売れるとはお金を稼ぐということであり、正義とは誰もが正しいと思っているということであり、マンパワーとは商品を作る人数であり、そしてクオリティとはお金を稼げることである。
お金に帰結するのは、作る人数が多いから、その食い扶持を稼がねばならないことによる。だから「いいもの」という感覚的で不確実な基準を信じると、お金を稼げなかった場合に死者が出てしまうおそれがある。それを防ぐためにはもっとわかりやすい、数値的な基準に頼る必要があった。
この考えが浸透していくと、それは作る側だけではなく、それを受け取る側の感覚にも影響してくる。即ち多くの消費者は、いいものだからそれにお金を出すのではなく、お金を出す価値があると思うからお金を出すのだ。
お金を出す価値。それが何かと言えば、「わからない」。誰も、それを考えたことなどない。もし正解があるとするのなら、それは個々人の中にある。でもそれを信じることは稀である。現代はすでに、価値観ですら外側に求めてやまないのだから、それは「勝ちがある」という価値を持ってしまったものが、売れるのである。
つまり、どこからか現れる価値という価値観に対して、私達は無批判にお金を出す。出さざるを得ない。そして往々にしてその価値の1つはマンパワーによって生み出されてしまう。なぜなら多くの人が関わっているということは、それは個人の価値観ではできていないからだ。
自分自身の持つ価値観を信じられなくなった現代において、それは唯一の光る価値かもしれない。他者性。そのにおいを、私達は「いいもの」として感じ取るのだ。
そうやってごくごく普通に、売れているものは売れ、そしてそれはいいものなのである。そこに狡猾な仕掛けなどない。ただただ、他者性によって、「人々が多くある」という特性によって、ものの価値は、クオリティは、決まっていってしまうのである。
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