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正義と悪と批判と擁護

 擁護とはどういう行為を言うのだろうか?

 多様な価値観が許されるようになった現代において、だからこそ、許されることと許されないことの線引きは厳しくなっている。
 日々、たくさんの出来事が起こる中で、多くの意見が飛び交い、時には擁護され、時には批判を受け、物事は語られる。
 そのような日常に私達は慣れた。
 ゆえに私達は条件反射的に、物事の良し悪しと、誰が「どちら側なのか」を判断するようになっている。それはつまり、大多数に従うということだ。現代では多くの意見が飛び交うがゆえに、「間違った側」、とりわけ悪と認定されたものだけは擁護しまいと、私達はとても気をつかっている。

 そうして忘れてしまうのは、意見が飛び交うことの本当の利益である。つまり様々な視点から1つの物事を分析することは、他の視点への理解や、再発防止や、意見を考える訓練に繫がる。
 しかしこのような利益を忘れ、単なる縄張り争いとして意見を交わすことによって、私達は物事を、特に「悪いと認定されたこと」について考察することを避けるようになってしまった。

 なぜならそれは、擁護だと考えられているからだ。

 当然の話だが、悪いことーー事件や事故、加害などについて「どうして起こったんだろう」「なぜそうなったのか」「その立場になってみると」などと分析することは、それを擁護することには当たらない。
 だが、例えば多くの死傷者を出した犯人について、その生い立ちや、動機、目的、意味などについて意見を言えば言うほど、犯人を擁護しているという人々が出てくる。
 つまり悪しき物事については語るな。語らずにただ悪いものとして封印しろ。そのような風潮がまかり通っているのだ。事件や事故や犯人について分析することは、自由にできない。下手すればその話題に触れるだけでも擁護だと取られる。

 私達が生きるこの多様な時代は、そのような線引きの上になりたっている。これでもかと強めた良い悪いの基準。悪いものは徹底的に閉じ込めることによって手に入れた自由。古来よりタブーという名のそれは存在したが、新しい時代にもなおそれは、ますます強い思念となって、私達の間に横たわっている。
 悪いこと、悪い人の側に少しでも立てない意見は、どちらにせよそれらを理解しないまま放置し、間違った価値観を助長し、また新たな強い思念を生む。

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