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夕焼けの赤鉛筆

 誰もが異質だと思っているが、それを言い出すことが憚られるような場合において、それを異質だと最初に表明した者は「悪」である。その実態は問われない。その実態が「正義」であっても。だから正義は為されない。

 石原和也はいじめられていた。そのきっかけは些細なもので、私にとっては突然とでも言うべき始まり方だったにもかかわらず、その火はあっという間に燃え広がった。和也は小学5年生にしては珍しく聡明な子供であり、長身で力も強く、いじめを受ける前は、授業中や学校行事や、登下校中に際して、場合によっては教師よりも発言力を持ち、生徒たちをまとめ行動を起こさせてきた実績もある。
 しかし、それは過去の話だった。私は赤鉛筆を置いた。なぜ、今時になっても小学校の学力テストの採点は、担任教師が1枚1枚、手書きで見てやらねばならないのだろうか。
「情緒的教育です。田子先生もそうだったでしょう。先生からの手書きのメッセージは子供の心を豊かにするのです」
 先日の教頭の言葉を思い出す。業務効率化は子供のためにならないらしい。この間、鬱で転勤になった新任教師がいた際に、それを「最近の若い人はこらえ性がない」と言い切った人間の言葉とは思えなかった。子供と教師は同じ人間ではないらしい。子供のためならば、教師の心はいくらでも荒廃してしまってもいいのだろう。
 私は、真っ白な学力テストの用紙をぼんやりと見つめていた。念のため裏を確認して、やはりそちらにもなんの答えも書いていないことを認める。裏返した際の風で赤鉛筆が転がり、まるで吐血のように赤い粉を机の上にまき散らして、隅の方でようやく止まった。このままでは、私はいじめ学級の担任になってしまう。そうわかっていても、具体的な行動を起こすための知識も、気力も、考える時間も、動くための時間も、何もかも足りないように思った。時間は作るものだと誰かが言っていたが、作り出す元手すらない状態で、どうすれば時間は私たちのもとにやってくるのだろうか。
「……多分、いるな」
 私は職員室に1つしかない古びた掛け時計を見て、まだ放課後が始まって間もないことを確認する。先ほど、チャイムはしっかり耳に届いていたから、時間はわかっていた。けれど、こうでもしないと自分は動き出せない気がした。立ち上がると、抵抗するように椅子が軋んで床をこすった。白紙の答案と、赤鉛筆をクラス名簿に挟み、6-2の教室へと向かう。
 廊下の空気は澄んでいた。昼間とは大違いだ。子供たちの騒ぎ声を聞き、何か起こっていないかと血眼になりながら、妙に敏感な上級生にはこちらの疲労など悟られないように挨拶をかわしつつ、走らぬように目的の場所まで急ぐ、そんなストレスの通り道のような廊下とはうって変わって、夕に向かいつつもまだ透明さを失わない日光が、連なる窓を通してぼんやりと暖かみを届けてくれている。全ての教室の扉は開け放たれ、子供たちのはしゃぐ声の代わりに澄んだ空気を循環させていた。私は小走りでB階段の踊り場まで行くと、少し息を整えて、階上へと上がった。

「住矢、帰らないのか」
「田子先生……」
 黄昏時へ向かう教室とともに薄らいでいくように、小暮住矢は独り、座っていた。その机は他の机から不自然に離されていて、住矢はその机の中に入れられたものを、あれこれ漁っている最中だった。
「塾あるんだろ。早く行かないと遅刻だぞ」
 気が付かないふりをし、私は教卓へと歩み寄った。住矢は警戒心の強いモルモットのような目でこちらを見ている。手は、机の中に入れっぱなしだった。
「……そうだ住矢、昨日のテストのことなんだが――」
 私は住矢の方を見ることなく、クラス名簿に挟んだ答案を取り出して言った。聞こえているはずだが、彼は返事をしなかった。私はそれを教卓に置いたまま、ゆっくりと歩み寄る。
「このままだと0点なんだが、お前がわからないはずないと思ってな。何か理由あるんだろう。今度お母さんに――」
「やめろ!」
 教室に溶け込んでいたはずの住矢が、にわかに存在感を放ち始め、こちらを睨む。私はきょとんとした顔を見せてみた。こういうとき、下手に出るのも高圧的になるのも逆効果だ。私は手近な椅子に座った。すると住矢は素早く机の中のものを掻き出し、湿った雑巾やら教科書やら、ゴミやら、そういったものをお構いなしに、リュックに流し込んでチャックを閉める。
「なんか、悩みがあったら俺でもいいし、カウンセラーの先生予約することもできるぞ」
「いい、俺塾の時間あるから」
「待て、本当にこれでいいのか?」
 リュックを片手に急いで教室を出ようとする住矢は、俺の一言に立ち止まった。彼はその幼い顔をこちらへ向けたが、それだけだった。すぐに教室から出ていく、乾いた上履きの音が遠ざかっていく。新品だ。先日、失くしたからと言って買いなおしたはずだが、あれも何日持つか、期待はできなかった。私はそんなことを他人事に思いながら、住矢のいた机に歩み寄った。
「まさかあいつがいじめられるなんてな……」
 彼の机には、丸められたプリント類がまだいくつか残っていた。最早、見て見ぬふりをするわけにはいかなかった。テストの答案という証拠も出てきてしまっている。住矢の両親にことが知れるまで、猶予はなさそうだった。

 住矢はいじめの主犯格だった。石原和也は5年生のときにそれをやめさせようとして、自分がいじめの標的になってしまった。あっという間に火はひろがり、石原は登校拒否の後、自宅で首を吊っているところを発見された。当時のクラス担任は、私の同期で、この事件を機に教師を辞めた。はつらつとした若い、やる気に満ちた女性だったが、周囲の全ての人間に追い詰められ、逃げるようにしていなくなった。今、どうしているのか私は知らない。自分に火の粉がかからぬように見ているだけだった私に、声をかける術は初めからなかった。
 1年がたち、同じことが繰り返されようとしている。住矢は耐えられるだろうか。私は少しだけ、他の机から距離をとっているだけの、きれいな机をもとの位置に戻す。昔のイメージでは、机に落書きの一つでもされているものだが、そんなわかりやすい話ではないらしい。気が付けば、住矢はいじめられていて、気づかぬ間に、あのときの石原和也と同じような目をして、私を見ている。

 当時、1度だけ石原和也と話をした。恐らく、もういじめが続いて何か月も経っていたときのことだ。同じように放課後に、彼が5-2の教室で独り、紛れ込むようにして座っていたのを、たまたま発見したのだ。
「帰らないのか?」
 担任でもなかった私は、そんなふうに軽く声をかけた。
「やることがあったので」
 石原和也はそう答えたと思う。私はそれに納得し、適当な言葉をかけて、他の用事を済ませに行ったのだ。その後、彼と会うことはなかった。だから私にとって、彼を救えるタイミングはその一瞬しかなかったのだと言える。しかし、仮にそのときに気が付いたとして、それをどうすればよかったのか。教頭に行ったところで具体的な対策が取れただろうか? いじめの主犯格を明らかにしたり、「もうしないように」とクラスの面々に言ったり、隔離措置をしたり、カウンセラーをつけたり……それでも、私の同僚は辞めていっただろう。それが変わらないのであれば、私たち教師には、そこまでする元手がないのと同じだと思った。そう思えてしまったのなら、もう、それはできないのである。結果的に、彼が死ぬなど誰も思っていなかった。少なくとも私はそうだ。あんな元気のよい子供が。あんな溌溂とした教師が辞めるなどと。

 今、私には行動を起こすだけの動機がないように思えていた。夕焼けが濃くなっていく無人の教室。教卓に置いてあった名簿に白紙の学力テストを戻した。赤鉛筆が逃げるように転がり出る。それは目で追う暇もなく、音を立てて教室の床に落ちた。赤い芯が、砕かれた血肉のように飛び散った。

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