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【小説】才能があったとして、努力の意味は

 少し思うのは、やはり努力なのだということ。
 世間では「最後は才能がもっていく」とか「才能はあったほうがいい」とかいう中で。それでも、大事なのは努力だということ。

 その日、近江という友人に呼び出されて適当な喫茶店に入った俺は、エアコンの強く効いた席に案内されて、少し肌寒さを感じていた。
 俺は近江になんの話かと尋ねて、乾いていた喉をうるおそうとした。
 しかし目の前の友人の話を聞いて、俺は自分の身体に、盛大にお冷をぶちまけてしまった。
 「辞めたって……まだ半年たってないだろ?」
 「でもなんか、会社の空気が悪くてさあ。だいじょぶだいじょぶ、次は見つけてあるから」
 「そういう問題じゃないだろ……」
 そっちがね、と飄々と返す近江は、のんきに店員を呼んで。
 俺はバツの悪い感じで冷えた体を震わせながら、真夏だというのに温かいミネストローネを頼んで。何度か店員に気を遣われたりしながら、近江の5度目となる転職話を聞いていた。

 近江は、知り合った学生の頃から変わった人間だと評判だった。常に余裕そうに笑って、しかし変なところでこだわりがあって神経質で、これと決めたら絶対に曲げずに非常識な行動をとることもあった。
 それを、友人の原田という女の子が良く咎めていた。
 「俺は、お前が未だに無職になっていないのが不思議だよ」
 「なるわけないじゃん。世間の受け皿って、意外と深いよ?」
 喫茶店から出た後、近江は早速、明日からの仕事に備えて研修があるとのことで、俺たちは帰路についていた。繁華街を駅に向かって進む。休日とはいえ、この日差しに頑張って外に出ようという人は少なく、あっという間に目的地に着きそうだった。俺は近江にまだなにか聞き足りないことはあるかと思ったが、まだじんわりと濡れている衣服の不快感のせいか、それとも5度目となる友人の転職話にうんざりしていたせいか、これといって何か思い浮かぶものでもなかった。
 その時――
 「お兄さん達、涼しいとこ探してないですか~?」
 やや派手な格好をした女の子が話しかけてくる。明らかな客引きだった。こんな時間、こんな暑いのによく頑張るものだ。いや、それとも単にやらされているだけなのだろうか。
 俺が一瞥もくれずに無視しようとすると、近江はこともあろうに立ち止まった。話を聞いてくれるのかと、女の子の目が一瞬輝いた気がした。
 「……原田じゃん、地元帰ったんじゃないの?」
 しかし、近江の言い放った言葉は、その場の誰にも予想外のものだった。俺は思わず、その女の子の顔をまじまじとみた……だが、わからない。確か原田というのは、学生の頃に良く飲みに行っていた友人だ。要領が良く成績優秀で、卒業旅行の計画を全て立てたのも原田だ。地元の銀行に就職が決まっていたと思うが、俺の憶えている情報はそこまでだ。
 しかも、それは6年も前の話だった。
 「え、えーと……」
 女の子は明らかに困っている。しかし近江は何か確信があるようで引かない。
 「こういう仕事するようになったんだ、俺も最近転職してさあ、ちょっと近い職種かも。連絡先変わってない? また飲みに行こう――」
 「――おい近江、行くぞ。研修遅れるだろ」
 俺は近江を小突いて、歩かせる。「研修」と言われて近江は素直に頷いた。こいつは職を変えるたびに、なんだか妙なテンションになることがあって、こうやって関係のない人に迷惑をかけるのだった。
 「あのな近江、前のときも言ったけど外で誰かに絡むのだけはやめて――」
 俺は近江に説教しながら、ちらりと、後ろの女の子の方を確認してしまった。その子はわけの分からない男2人組がすぐに立ち去ってくれたことにほっとしたように、右手を胸に当てていた。
 「…………」
 「……ん? どうしたの?」
 「いや……てかなんで原田だってわかった?」
 「え? 逆にわかんなかった? だって全然変わってないじゃん」
 近江の奇妙な観察力と記憶力に今更驚く意味はないとしても、確かに、あの、胸に手を当てるしぐさは、俺の憶えている原田と同じだった。
 人間は驚いたときや不意を突かれたときなどに素が出ると言うが、あれはそういうことだったのだろうか。
 「なんであんな仕事してんだろうな」
 「お、偏見?」
 「いやそうじゃなくて。こっち来てたのもだけど、卒業のとき銀行だって言ってただろ?」
 原田は、変人の近江を見慣れている俺にとっては、物凄く「ちゃんとした」からブレない人間代表だった。
 当時、父親がいないことは聞いていたが、それでもアルバイトと学業を両立して良い成績で高校・大学を卒業し、性格はまじめで、一度だけ招かれたことのある独り暮らしの部屋は、きちんと整理整頓されていて綺麗だった。
 だから、そういう努力した人間が努力したなりのちゃんとした職業に就くということに、俺は自分のことでもないのに、変な安心感を覚えていたのだった。
 「やっぱ偏見じゃん。努力ってなに? ちゃんとってなに?」
 「知ってる。もういい大人だし。でも昔はそう思ってたんだよ。原田みたいなのが『ちゃんと努力のできる人間』だって」
 「俺がそうじゃないみたいだね」
 「だったら何回も転職しねえよ」
 「そうかな……?」
 近江はわざとらしく小首をかしげて見せたが、実際、自分の特殊性を自覚してはいないだろう。
 「じゃあ原田のことはどう思ってる?」
 近江が聞き返してくる。俺はその質問はどういう意味かと一瞬考えて、こいつのことだから、ただ純粋にどう思っているのかを聞きたいのだと了解した。
 「どうって?」
 だが、念のため尋ね返してみる。
 「もう努力してないって言いたいの?」
 「いや、原田のことは知らねえよ。昔はそうだったなって俺が勝手に思ってたって話」
 「でもがっかりしてるじゃん」
 近江の得意げな顔が腹立たしい。言い返してやろうと思ったが、いつの間にか、俺たちは駅についていた。ここからは、それぞれ乗る路線が違うのでお別れだ。
 「……じゃあな、研修で落とされんなよ」
 「それやったら最速記録じゃん」
 面白そうに言う近江は、やはり普通ではないし、それでもこいつが生きていけるのはやはり、なんらかの才能があるからだと思わざるを得なかった。
 「どうだろうね、この世は努力でできてると思うよ。結果とかは抜きにして。とにかくは」
 俺の心を見透かしたように近江は言う。
 その言葉には全く納得できなかった。それは原田をこの目で見てしまったからかもしれない。それは俺自身が、努力した人はこうならなければとか、こうでなければならないとか、そういうことに未だにこだわっているからかもしれない。

 近江と別れて電車に乗る。夕方近くなり、車内は蒸し蒸しとしてなお、人が多い。途中駅で、駅員に補助されて車椅子の男性が乗ってきた。
 ガタガタと音を立てながら、車椅子は遠慮気にドア付近にとどまっている。ちょうど、俺の真横だった。乗客は誰も、その男性を気にしていないようで、気にしていた。
 電車が揺れ、車椅子が後ろに大きく動こうとする。俺はとっさに、それをつかんで戻した。
 乗客は、気にしていないようで気にしていた。
 車椅子の男性は、小さな声で礼を言った。
 確かに、無視はできないだろう。けれど俺は、どうして自分の手が、車椅子をとっさにつかんで引き戻したのかは、わからなかった。


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