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男から見た女と、女から見た男。そして、

 男性からして、女性とはこういうものであるという一般論がある。そしてまた、女性からして男性とはこういうものであるというのも存在する。意識していようがそうでなかろうが、そして正しかろうがそうでなかろうが、人間とは常に性別にとらわれているものであって、例外はない。
 この性別というものがレッテルでしかないとしても(つまり、単なる「そうである」ものとして誰も疑ってこなかった概念)、それは存在するのであり、絶対的に意識にのぼり、従って私達を支配している。

 そのことを踏まえて、私達が性別に関して疑わなければならないものがある。即ち、いつまでも常識だと思い続けてはいけないものがある。よく言われるように、それは「性別を疑え」ということではない。LGBTとか、性役割とか、そういった根本的なものではない。
 まず、シンプルにこの性別というものが、「男女」しかないのだと、あえて考えてみる。そうした時に、この男女にとって、疑わなければならないことがあるのだ。それは、男にとっての女と、女にとっての男が同列に語れるものではないということである。

 男が思う女と、女が思う男は違うイメージを持っている。そして距離感も違う。男が思う男と、女が思う女も当然に違うイメージだ。要するに、2種類しかないからと言って、それらが同じ地平に、互いに向き合って立っているわけではないということなのだ。
 何を当然のことを、と思うかもしれない。なにせ、「男が思う女」という言葉と「女が思う男」という言葉は違うものを指しているからだ。ならば異なるのは当然である。つまりところこの表現は、「男と女は違うイメージを持たれている」と言っているにすぎないのだから。
 この世に男女の2種類があるのであれば、違う種類のもののことを違うということに何な特別性もない。

 だが、ここでの意味合いはそうではない。
 要するに、「男が女へ抱くイメージ」というのの女性版が、「女が男へ抱くイメージ」というわけではない、ということである。必ずしも、男が女を思い描くように、女は男を思い描かないのだ。
 なぜなら、考えても見て欲しい。男にとっての母親は、女にとっての父親だと言われて、納得できるだろうか。たとえ一瞬、そうだと思えても、よく考えてみれば、男にとっての母親は女にとっても母親である。すると、男にとっての女性性が、どうして何の疑いもなく女にとっての男性性になってしまうのか? 
 そしてまたたとえば、男にとっての仕事への位置づけと、女にとっての仕事への位置づけが異なること。家庭、社会、友達、その他様々なものに関して、男女という立場に立った時に、必ずしも同じ距離や同じ高さや、同じ温度感であるわけがないということに、私達は気づいているはずだ。
 私達が疑わなければならないことの1つは、こういった「性の非対称性」にまつわる事象である。非対称性。男女は対称的ではない。四角い紙の端と端に1つずつ描かれた記号ではない。真ん中で折れば重なるような位置にいるという、そんな単純なものではないのである。
 そもそも男女における真ん中など存在しないということにも、私達は気づかなければならない。すべての事象は必ずどちらかに寄っている。

 そして残念なことに、ここまでの話はあくまで、この世が「男女しかなかったら」という前提のものである。

 男女には非対称性がある。そしてそれはまだ、とてもわかりやすい2元論だ。現実はもっと複雑で、分けられていることすら分からない曖昧さがあり、人間の数だけ認識とイメージと、正解がある。私達はそんな非対称性の中を生きなければならない。

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