解像度の上がった日常に対して
人間は全体の動きに同調しがちな生き物だ。それは本能ではなく、理性があるからこそ、周囲の動きを気にしてしまうことからくる。だがこの人間の習性は、時としてその理性とは反対に妄信や過信、思考停止の原因となる。
もし、あなたがそのような全体的な動きばかりにとらわれたくないと思うなら、むしろあなたは、全体をこそ見つめるべきである。
私たちは細かいことを気にしすぎている。細かいこととは、文字通りの意味だ。小さな文字、写真の隅、些細な態度、オフの日の過ごし方、言葉遣い……そのようなものたち。
常に、あらゆるものを気にし、それが適正かどうかをチェックすることは、いつの日からか人々の日常になった。日常でなくとも、その情報は否応にでもあなたの耳に入ってくる。情報のやり取りや取得が簡単になったばかりでなく、その原因は、人間の日常の解像度が上がったからである。
字義通り、確かに解像度は上がる一方だ。かつて高画質と言われていた数値は最早一般的になり、今や人間が目にすることのできる印刷物の解像度は、デジタル処理のおかげで随分高い。まるでどこまでも拡大でき、その色素のひと粒ひと粒が見えるかの如く、映像や画像の解像度は果てしなくなっている。
そんな解像度に慣れ親しんだ私たちが、その他の物事に関して、低解像度で満足できるわけがない。それは、モザイクの世界に生きるようなものだ。街を歩いていてもブロックノイズ、知り合いの顔も声でしかわからず、何を食べても味しかしない。もし、そんな世界なら嫌気がさすだろう。日常の解像度が上がるとは、そういったモザイクの世界が、これまでの日常だということである。
街の中にある様々な店は、ネットの口コミやサイト、SNSなどによって評判が数値化され、言ってもいないのに中の雰囲気も店主の態度もわかる。知り合いのSNSアカウントでの発言や投稿画像・動画を知って、自分以外との交友関係もバッチリ把握。今日の朝食はたんぱく質を多めにとったから、昼は炭水化物を、バランスを取って野菜は……などなど。かつてのぼんやりとした、なんとなくの目に映るだけだった日常風景は、いつの間にか様変わりしている。
これが現代の、解像度の上がった日常である。そしてそれは、私たち個人の力でなしえたものではない。また、個人だけでは、この日常は実現しなかった。全て、人間の「全体主義本能」による、信用と、知識欲によるものである。
つまり私たちは、このような日常を送る中で、意識するとせざるとにかかわらず、他人に頼り、他人を気にしている。つまり、この解像度の上がった日常から来る情報を受け取る限り、私たちは全体に同調しているのである。
全体とは、他者と繋がっている情報網全てである。
個人よりも、全体の方が数が多い、だから正しい。全体と同じであれば、死ぬ確率は少ない、だから従おう。このような考え方が、知らず知らずにでもベースにあるからこそ、私たちは遠慮なく日常の解像度を上げることができたのだ。
このような日常は便利だからこそ、もし、それに寄りかかりきりになりたくないと言うのなら、この「全体」を、全体的に見渡すよう意識することだ。
即ち、より外側から、自分の日常を見つめ直す。昨今の解像度の上がった日常はどういうものに支えられているのか、その利はどこに流れているのか、私たちはどこへ向かおうとしているのか、あるいは、そうさせられているのか……?
解像度は、多分、もう下げることはできない。それは盲目になることを意味するからだ。周囲と比べて、モザイクだらけですごすことは難しいだろう。だから、せめて全体を、全体としてきちんと捉えることに肯定的であるべきだ。
そしてできれば、全体を見つめてみると、いいかもしれない。
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