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「できない」言い訳など過去でしかなく

 他人の「できない」を信じられないのはどうしてだろう。私たちは誰かの、やるべきことをやらない様を目の当たりにすることはとても多い。
 何か問題が起こると、誰かがやっていなかった何かが原因になる。そしてその「やらなかった理由」を聞いて、私たちはため息をつくのだ。
「だったらやればよかったのに」と。

「できない」理由に賛同できないのは、それに合理性がないからでも、納得できないからでもない。私たちは「事情」を聞くのを嫌う。そもそも聞いていないのだ。なぜならどうでもいいから。他人の事情など、自分のそれに比べたらはるかに劣る。共感などもってのほかで、聞く時間すらもったいない。
 いくらこんこんと詳しく説明されても「あーそうですか」。むしろ聞いてやろうと構えてみても、聞けば聞くほど嫌気が差してくる。だって自分とは関係がないから。どんな境遇か、どう思っているのか、今の気持ちは、これからどうするつもりなのか…無駄な情報だ。それを知ったところで、私たちにはどうすることもできない。
 相手が自分の言うことに完全に従う操り人形ならまだしも、意志ある人間なのだ。たとえ子どもでも、それをコントロールなどできはしない。なによりこちらの意図を完全にわかって動いてくれる他人などいるはずがない。
 そもそもそれは、「できない」ことの言い訳なのだ。うんざりする。信じられるはずがない。

 そして他人も、自分に対してそう思っている。どんな聖人でも「できない」に納得するはずがない。自分と他人は違うので、共感など不可能なのだ。だからこそ異なる発想や行動で、補い合い協力して事をなすことができる。根本的に分かり合えない。特に「できない」ことなど、もはや他人にとって、過去の事実でしかない。

 私たちが信じられないのは、その意志である。「できない」から許してほしいのか、次は頑張るなのか、だから信じてなのか。その言葉や意志は空論である。終わったことの解説など、信じる必要がない。確定した事実に時間を割くくらいなら、私たちはむしろ、その体験を材料にした未来を望む。
「できない」を信じられるようにするためには、本人の中でそれは粉々に噛み砕かれ、何かの糧とならねばならない。
 そこまでできていないのなら、私たちはずっとできなかったことにしがみついて、離れることも不可能な弱い子どもである。

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