自分の言葉を知りたければ、自分でない言葉を知れ
言葉が面白いのは2つ以上の言語を知った時にこそ本当の姿が見えてくるということである。人は生まれてから基本として使う言語とは別に、あとから様々な言語を学習できる。
するとはじめて、言語どうしの比較という概念が生まれ、それによって元々の言語に思わぬ角度からのスポットライトが当たるのである。なぜならその瞬間、自らの当たり前に使ってきた言葉が当たり前だではなくなるからだ。
言葉には意味と表現がある。そしてあらゆる言葉において、意味は共通である。しかし表現が違うということがある。だから気づくのだ。同じ意味なのに違う表現があるということを。そしてふと、視点が変わる。今まで当たり前にあったものが異なる色や形を見せ、想像だにしていなかった扱われ方を知る時、その人の「言葉」という当たり前は崩れさる。
だが、それはなくなってしまったのではない。見えていたものが崩れただけなのだ。その向こうにはまた別の姿があり、そうして、言語の「今まで」と「これから」をどちらも知ったことでより理解が深まる。
違う姿を見てこそ、自らの常識の本質が理解できる。
とかく物事とはそういうものだが、こと言語は、慣れ親しんできた基盤があるがゆえに、その、当然そうである姿というのはまさに疑うべき対象である。そしてそのためには、異なる言語を知るのがもっとも良い。
言語とは面白いものだ。
しかしそれ以上に、単に生まれつきそれに慣れ親しんできたくらいでは、まったく理解できたとは言えないほどのものなのである。
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