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監視はなぜ、責任と自由をバラバラにするのか

 自分の行為には自分で責任を取る。それが「大人」の常識とされている。そしてそれは正しく、即ち自らの責を負うというのは義務であって、そしてだからこそ自由と言える。
 人の自由はそこにこそある。これには大人も子供も関係がなく、現代の個人主義的な考えのもとでは特に、自己責任という言葉は誰にでも適応されるほどである。

 責任は自由なのだ。それだからこそ私達は責任を負う。だが近頃では、監視社会において人々は相互に見張られている。あらゆる行為は、誰かの意見が差し挟まれる窮屈なものとなりつつある。何をしていても他者の目が、口出しが、介入や強制がつきまとう。
 これは自由ではない。だが自己責任だけは邪魔されない。即ち責任ばかり取り沙汰されて、その自由は何も得られないか、著しく少なくなってきている。

 確かに自由は他者への迷惑を懸念するものだ。だから私達は、個人主義の今において感じを強めることとなった。あまりにも自由がすぎるから。でも、そうやって感じを強めたはいいものの、その監視者たちが責任を取ることはない。ただ、監視するだけだ。そして口を出す。責任はその一部すら取らず。好きなだけ。つまりそれは自由。

 つまり、自己責任の社会から自由だけが監視者に渡ってしまっているのだ。だから私達は責任ばかりがその身にのしかかってしまう。問題なのはバランスが悪くなっていることだ。1個人の中にある責任と自由のバランス。
 その悪化は私達の生きづらさに直結している。本来、責任を取るから自由なのだ。そして自由だからこそ責任を取る。それは誰も邪魔できない個人だけのものだった。それなのに今、他者への介入はとても当たり前のものとして行われてしまっている。
 それでバランスが取れるのなら良いが、そこが崩れてしまうのでは、結局のところ意味はない。

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