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短編小説

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#物語

我々はすぐに消えてしまえるので

 消失、というのはごく簡単なことなのだと思った。友達からのメッセージを読み終わって、<いいよ>と返して、私は寝転がっていたソファから身を起こした。部屋はありえないくらいに散らかっている。瓶や缶は机どころか床中に散乱していて、ゴミ箱が置いてあったあたりには大量の丸めたティッシュが山になっている。一応、袋には分類して色々、スプレー缶とか、包装紙とか、使わない食器とか捨ててみたけど、それを家の外のゴミ捨て場に持っていかないと、捨てたことにはならないことに今朝気づいた。 「……明日は

人身事故と非常時の怒り

 人身事故で停車した満員電車の中で聞こえてきたのは多くのため息と舌打ちだった。慌てて電話を取り出して遅刻の連絡を始める会社員。その隣の背の高い女性が、少し顔を上げてまた何事もなかったかのようにスマホに目を移す。熱気と湿気が身じろぎすらできない空間の中で渦巻いていた。冬の外気は寒く、いつの間にか電車の窓ガラスは曇っていた。多分、みんなのため息がいっそう車内を暖めたのだろうと思う。  その靄がかった窓ガラスには、こんなにも混雑した車内の人々の様々な顔が映っている。しかしみな、一様

宇宙の内外および理想と実情への想い

 私は宇宙的空間とやらに理想的な思いを巡らせたことなどただの一度もないが、人々が空に憧れ、上を目指し、あのどこまでも続く星々の空間の中へ飛び込んでいきたいという欲求は、充分に理解しているつもりだった。それは人々の「内側」に、それら自身の宇宙空間があり、そしてそこに住まう宇宙人がいて、生態系があって、出来事があるのだ。その限りにおいて、宇宙はまだ人々と幸せな関係を築いている。  しかし、人間の「宇宙飛行士」という職業は、昔ほどは手の届かない存在ではなくなり、それどころか金さえあ

父と母の今と昔

 小学生の時、将来の夢を書けと言われて書いたのは多分、父親の職業だったと思う。それは確か普通の会社員というわけではなかったけれど、それほど希少な職業というわけでもなかった。その頃のことがそんなに曖昧なのは、ちょうど父と母が離婚しようかしまいかと家庭内がそれはもうぎくしゃくしていたからで、正直、小学校高学年までそんな大して意識していなかった父親の職業というものに、せっかく興味が持てるタイミングを逃してしまったのだと、今にしてみれば思う。  父親の職業。そして母親の職業。そのよ

変わりゆく「人」と、自分との関係と

 自分が友人を失って手に入れたものは、すぐにいっぱいになる郵便受けと、電子メールボックスを圧迫する勧誘メールと、電話やSNSのメッセージと、それらを無視しても数分おきに携帯に現れる通知だった。友人を失ったのは現実のことだったが、代わりに現れたそれらの殆どは自分の目の前に現れるわけでもなく──画面上や音声としてはあるが、空間を共有していないという意味で──ただただ、自分の時間と精神を蝕んでいった。  周囲の人からは「無視が1番」とか、「そのうちいなくなる」とか、「気にしなければ

災害は遠くにある

 ”災害”は、自分の今いる場所や時間から遠いものだった。それは地域と世代を壁にして、あくまでも、自分の向こう側の存在だった。  そのことは、今でも当然だと思っている。そう思わなければいけないと感じている。災害で何もかもを失くし、自分というものが丸裸になったあの時から。 「だから憶えてないって言ってるじゃん」  娘のくるみがスマホの画面から目を離さずに言った。知らない曲が、彼女の手の中からくぐもった音を立て、流れる。その曲は流行らしい。くるみがスマホを取り出すたび、その曲がB

日本懸賞管理法人ドリーム

 自分を肯定することは良いことだ。ある本にそう書かれていた。  そこには、日本人は自己肯定力が弱いということも説明されていて、そのままでは自分たちは、本来の力を発揮できないばかりか、その自信のなさにより周囲の足まで引っ張ってしまうと、そのようなことが書かれていた。 「はあ……」  ため息をつくと幸せが逃げる。そんな言葉を聞いたことがあるものの、藤堂二夢は今ばかりは、この巨大な後悔の塊の一部でも、口から吐き出さずにはいられなかった。  冬だ。それも今日はとびきり寒く、二夢のた

「才能」と「努力」という言葉を、誰も知らない

 この宇宙にはまだまだ知られていないことが多い。  星星の輝く宇宙の外にはなにがあるのか。  月はなぜ地球の衛星となったのか。  生き物とはどうしてこんなにも精緻な仕組みで作られているのか。  私たち人間の身体と心の境目はどこにあるのか。  そして、才能と努力とは、いつ、どこで、それが手に入るものなのか。  その日、大倉崇は日課のウォーキングのために朝5時に家を出た。澄んだ、冷たい空気が鼻にツンとした。まるで寒さに怯えるように、フリースの上下がクシャクシャと音を立てる。前夜

才能があっていいねという言葉を、あなたは理解できるのか

 少し思うのは、やはり才能なのだということ。  世間では「最後は努力がもっていく」とか「努力はしたほうがいい」とかいう中で。それでも、最後に物事を決めるのは才能だということ。   まただ。  私は夜中に目が覚めた。目の前にぼんやりと見慣れた天井が広がる。その向こうからゴソゴソと、できるだけ音を立てまいとしつつ、誰かが動き回っているのがわかる。  隣の夫は熟睡しているようだった。私は起こさぬようにベッドから抜け出ると、今日こそは、あの音の主に注意をしようと廊下へ出た。  私達

【小説】才能があったとして、努力の意味は

 少し思うのは、やはり努力なのだということ。  世間では「最後は才能がもっていく」とか「才能はあったほうがいい」とかいう中で。それでも、大事なのは努力だということ。  その日、近江という友人に呼び出されて適当な喫茶店に入った俺は、エアコンの強く効いた席に案内されて、少し肌寒さを感じていた。  俺は近江になんの話かと尋ねて、乾いていた喉をうるおそうとした。  しかし目の前の友人の話を聞いて、俺は自分の身体に、盛大にお冷をぶちまけてしまった。  「辞めたって……まだ半年たってな