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「才能」と「努力」という言葉を、誰も知らない

 この宇宙にはまだまだ知られていないことが多い。
 星星の輝く宇宙の外にはなにがあるのか。
 月はなぜ地球の衛星となったのか。
 生き物とはどうしてこんなにも精緻な仕組みで作られているのか。
 私たち人間の身体と心の境目はどこにあるのか。
 そして、才能と努力とは、いつ、どこで、それが手に入るものなのか。

 その日、大倉崇は日課のウォーキングのために朝5時に家を出た。澄んだ、冷たい空気が鼻にツンとした。まるで寒さに怯えるように、フリースの上下がクシャクシャと音を立てる。前夜に防汚スプレーをかけておいたシューズが、足を引き締めて堅い地面を蹴った。

 こんな時間に外に出ていることからはうかがい知れないが、彼がウォーキングを続けているのは惰性だった。少なくとも、大倉本人はそう思っている。
 そもそも彼は、昔から面倒くさがり屋だったのだ。子どもの頃、親にせがんで始めたスイミングスクールもバタフライを覚える前に辞めた。ピアノも習ったが続かなかった。思春期には漫画を描こうと原稿用紙など一式をそろえたが、結局、半月後には引き出しにしまいっぱなしになっていた。
 それにもかかわらず、大学に入りたての頃友人に誘われてから2年間、雨の日も寒い雪の日も、ウォーキングを1日たりとて休んでいない。

 それには理由があった。
 「宇宙人」にそう言われたからだ。なんの喩えでもなく、大倉は宇宙人に出会ったことがある。

 1年と半年前の夏。土砂降りの日、彼はそれまで続けてきた日課をやめようと思った。その日は雨の音で目が覚めるくらいのひどい天気で、彼はベッドの上で曇天の空を睨んだのを覚えている。寝起きの瞼のように重い気分を引きずって、彼は一応、ウォーキングの準備まではした。
 しかし玄関先まで来た時、こんなにも土砂降りの雨の日に使えるようなシューズがないことに思い至った。もちろん、シューズカバーもスプレーもまだ持っていなかった頃だ。友人に言われてはいたのだが、面倒で揃えていなかった。
 大倉は靴類の入った棚を閉じ、玄関に背を向けた。今日はもうやめて明日にしようと、彼の中の3日坊主がささやいた。それに頷き、自室へ戻った。
 「やめちゃうの?」
 だが、部屋の扉を開けたとき、彼はなにかにぶつかったかのように、そこへ入ることができなかった。目の前にいたのは、見知らぬ少女。雨音でなにを言ったのか聞きとりづらかったこともあり、思わず聞き返した。少女はきょとんとした顔で、再度、同じ質問を繰り返すだけだ。
 「君、どこから入ったの?」
 「……?」
 首を傾げたいのは大倉のほうだった。少女は彼のベッドの上に立っていたため、その仕草のたびにスプリングのせいで上下にふわふわと揺れる。それがまるで、この世の人間でないように感じられた。
 大倉は何度か、少女の名前や、出身地や、両親のことなどを尋ねたが、期待したような答えはなかった。彼は仕方なく、少女の最初の質問に答えることにした。
 「……大雨だから、靴もダメになるし、今日は行かないつもり」
 はたしてウォーキングのことを少女が知りたいのかはわからなかったものの、大倉は自分の中で用意していた言い訳を連ねることにした。
 「でも、行こうと思えば行ける?」
 「そりゃ、そう思えれば」
 「なんで思えないの?」
 「……昔からそうなんだよ、飽き性っていうか」
 大倉はそう答えながら、なんだか変な気がしていた。
 昔、とはいつのことだろう。この少女くらいのときからだろうか。それとも、もっと前からだろうか。
 確かに子供の頃、色々なおもちゃや遊びに目移りしてしまうことはあった。けれどそれは、飽き性だからなのだろうか。子供はそういうものではないだろうか。
 ならば大人になってからだろうか? けれど、そうではないことは彼の経験からはっきりしていた。大倉はいつのまにか飽き性ということになっていた。自分でも知らない内に。誰に決められたわけでもなく。
 そういうことを考えると、大倉は少女の疑問に、真正面から答えることができないのを感じていた。
 「飽き性、がダメなんだね」
 「……多分」
 大倉はそう答えるしかなかった。
 少女は、わかったかそうでないのか、ふんふんと頷いてから、ゆっくりと右手で大倉を指さした。
 「じゃあ、それを無くしてあげる」
 「え?」
 その瞬間、少女の指先が光った……ように、彼には見えた。しかしその光に貫かれたとき、彼はまるで解けなかったパズルが解けたときのような、一瞬の高揚感を味わい、その他のことがどうでも良くなったように感じた。
 「……あれ?」
 光が収まると、少女の姿はなかった。窓の外は土砂降りだ。まるで雲が地上まで下りてきたような、どんよりとした灰色の空気は変わらない。だが不思議なことに、大倉の足は自然と、再び玄関へと向かっていた。
 「そういえば……長靴があったな」
 彼は靴類の入った棚の奥から、安物の長靴を取り出した。それはもう、漫画に出てくるような色と形の長靴で、履いているところを誰かに見られるのは気恥ずかしいくらいのヤツだった。
 「よし……行くか」
 それでも、今の大倉にとっては、ここまでの半年間続けてきたウォーキングを、土砂降りの雨などというくだらない理由で辞めてしまうことのほうが嫌だった。
 彼はビニール傘をひっつかむと、玄関の扉を開け、大雨の音の中に歩き出して行った。

 そんなことがあってから、約2年が経った。
 フリースと、新品のシューズを履いた大倉は黙々と、昔から景色の変わらない道を歩いて行く。
 住宅街を抜け、目的地の公園へ向かって足を回転させるたび、冬ではないがそれに近い温度の空気が、大倉の手や頬を横切っていく。
 大倉はその通り抜けていく無遠慮な風が好きだった。子供の頃、地球が自転していることを親に聞かされたときに、喜び勇んで外に駆け出していった。慌てて追いかけてきた親に大倉は、不思議な顔で「風は?」と尋ねたそうある。
 地球が自転し、動いているというのなら、それに乗っている自分も動いているのだから、風に当たらなければおかしいと言うのである。大倉の両親は感心するとともに、しかし、子供の疑問に答えることはできなかった。

 大倉は公園についた。朝の5時15分。この時間にひとけはなかった。彼はいつものように遊具の並ぶ一角へ行き――あの時と同じ、壁に当たったかのように立ち止まっていた。
 そこには、少女がいた。まだ肌寒いこの時間にもかかわらず、その格好は2年前の夏と同じだった。
 「飽き性、治った?」
 少女はあのときと同じ調子で尋ねてくる。
 大倉は驚きながら、よくわからない、と首を振った。少女は笑ったかどうかもわからない、微妙な表情を浮かべた。彼女のおかげで、ここまで続けられていることを大倉は伝えようとした。
 しかし、少女は見透かしたかのように首を振って、風のようにふわりと消えた。大倉はしばしその場に立っていたが、また再び、歩き始めた。

 この世の中にはわからないことが多くある。それは自分の外側にあることだけでなく、内側のこともそうだ。
 大倉は、少女が放った光と、自分の飽き性との関係はわからないままだった。それに、飽き性も治ったとは思えなかったが、どういうわけか、このウォーキングだけは続けることができている。
 それは、あの少女にまた会えるかもしれないから、というわけではないだろう。あれから何度か、土砂降りの日もあったし猛吹雪の日もあったし、体調が優れずに外に出たくない日もあった。けれどそれらを乗り越えてこれたのは、多分、自分自身の力によるところが大きい。
 大倉は自分の頑張りで、昔は到底できないと思っていたことができるということを知った。その事実だけで、もしかしたら人は努力できるのかもしれない。
 「……もうちょっと、遠くまで歩いてみようかな」
 大倉はつぶやいて、公園を出た。髪をなでる頬が、心地よかった。

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