「鎌倉できるだけ無銭暮らし」(2) 和賀正樹
小さな私設の図書箱を
東南アジアの村むらで、なにがうらやましいか。ペットと食糧のあわいだろう、ニワトリが野道を闊歩している風景だ。
国分寺の一軒家に住んでいたときは、廃材で小屋をつくり、軒下で赤玉鶏のゴトウ3羽を飼っていた。もう地べたで飼えるぞ。ついに平飼いだ。ヤギも飼いたいなあ。
自宅の裏山を中心に、海、川から、ただのたべものを頂戴する日々をめざして、4年前に新宿区曙橋から引っ越した。
鎌倉では、ノーバイデイ(無買日)に取り組む市民グループもある。
年に何回かは、おカネにさわらず、贈与や交換で済ましてみよう。カナダで始まった運動だ。
目抜き通りの若宮大路。ご飯屋の脇には、「みんなのほんばこ」が置かれている。つねに20冊ほどが在架。いつでも自由に持ち帰りでき、お勧めの本(ビジネス勧誘、特定の政党、宗教以外)を寄贈してと呼びかけている。
葉山町には「うみとやまのこどもとしょかん」という私設図書館があり、主宰者の女性が、屋外に設置することを条件に、「みんなのほんばこ」30箱を提供。若宮大路の本箱も、その仲間だ。
アマゾン河口のベレン。薬種商の岩坂保さん(『アマゾンの闇鍋』の著者。熊本県出身。ゴム農園の労働者から身を起こした痛快な一代記)の自宅に居候していたおり、医師の長女にアマゾニス病院を案内してもらった。
同院は日本ブラジル援護協会が日本人移民のために1962年に設けた診療所がもと。いまではブラジル市民に広く開放され、パラ州随一の基幹病院になっている。
エレベーターの扉全面に満開の桜と金閣寺がラッピング塗布され、望郷の念を癒し、ときに、かきたててくれる。
感心したのは、廊下に置かれた日本語の本棚――入院患者の無聊をなぐさめる装置だ。そこで『忘れられない日本人移民 ブラジルに渡った記録映像作家の旅』(岡村淳 港の人)を手にした。
ここに登場する6人の日本人移民の人生のぶ厚さに圧倒された。――圧倒された。感動した。涙した。考えさせられた・・・。この手の常套句はたぶんに自己陶酔。読者になにも伝わらず使用不可。そう課しているのだが――永年、給料生活者として自己家畜化されてきたわたしなど、なんと薄っぺらい人生なのだろうかと、深く考えさせられた(懲りていません)。
著者は往年の名番組「すばらしい世界旅行」の元ディレクター。サンパウロ在住。ブラジルの日本人移民、社会環境問題をテーマとした映像作品を自主制作。欧州や日本で、本人が立ち会う上映会をひらいている。
余談ですが、伝説のプロデューサー牛山純一がいかに破天荒で無茶ぶりの人物か、活写されています。ここも読みどころ。
労災で知る資本主義の冷酷さ
病院で思い出したぞ。さびしい記憶がある。
4年前、土木作業の現場で転落した。膝の半月板断裂・後十字靭帯損傷で、東京山手メディカルセンター(旧・社会保険中央病院。新宿区百人町)に入院・手術。400床を超える大病院。図書コーナーはあるのだが、蔵書はコミックやライトノベル中心。退院後の検査時に再訪し、自宅からもってきた本たちを勝手に置いてきた。
さらに、わたくしごとをゆるしてほしい。
事故現場は、新宿区市ヶ谷薬王寺町の埋蔵文化財の調査工事。都埋蔵文化財センターの受託で、大日本土木㈱東京支店の下請け会社(本社・日野市)、実際はそのまた孫請け会社(八王子市)が工事一式を請け負っていた。わたしは下請け会社に雇用されたアルバイト。派遣先が孫請け会社だった。
作業中、あやまって2メートル下の試掘抗に転落。老朽化したコンパネ板とともに落下した。
当日、なんとか作業を終え、近くの柳町病院に直行。「リハビリ期間をふくめ、6か月間の療養を要す」の診断がおりた。
辛かったのは、そのあとです。雇用した下請け会社が労災事故を認めない。労災と認定されると、雇った企業は労働基準監督署の調査を受けたり、ペナルティーとして労働保険料が増額されるからだ。
精密検査の期間、何回か面談。女性社長とその弟に労災申請をしてくれるなと説得された。医療費は全額、当方で負担する。AIUのほうがずっと見舞金、医療費などの補償が手厚い。たくみに民間の保険に誘導する。――いわゆる労災隠し。
拒絶すると「もとから膝が悪かったのでは」といい出した。
気の弱いひと、ひきつづき雇用を望むひとならば、折れてしまうかもしれない。しかし、一時金に目くらましされてはいけない。労災ならば、休業補償金が治療終了日まで支給され、後遺障害があれば等級によって年金が死亡するまで支給される。まだ、日本の社会的インフラは、しっかりしている。
さいわい、手術はうまくいった。高地登山はむりだが、あるける。ときどき痛むが重い障害はまぬがれた。
現場で一緒にはたらく仲間には、白髪の独居老人もいれば、高円寺でガールズバーの雇われ店長をしていた失業中の中年男性もいた。総じて、羊のようにおとなしく映った。
また、まるめこまれるのではないか。
発注者が都の公共事業なのに、このありさま。純粋な民間事業の現場は、さらに冷酷だろう。
労災の申請書には、事業主の署名、捺印欄がある。配達証明つきで本社に発送するが、なしのつぶて。都埋蔵文化財センターの職員(作業員からは「先生」と呼ばれていた。刑務所でも受刑者から刑務官はそう呼ばれるらしい)も現場に詰めていた。実情を訴える手紙を同センターの彼あてに出したが、これもなしのつぶて。
現場はまだ土木作業がつづいている。
「労災の申請を受け付けてください」と2度、現場のプレハブ小屋に足をひこずりひきずり?いった。おまえに言われるまでもない。そう思われてもいい。現場の仲間に、このあいだの事故は労災で申請に値する、と知ってほしかったのだ。
労基署に相談。結局、事業主欄は無記名で申請し、受理された。
公平な審査をおこなった新宿労働基準監督署、厚生労働省東京労働局のみなさん、ありがとう。
京都の白亜文庫
京都も負けていない。銀閣寺のそばに50余年の歴史をほこる、その名も「私設図書館」がある。コーヒー、紅茶、緑茶つき。2時間300円(平日)から。読書はもちろん、自習室としてもつかわれている。
京都大学吉田南キャンパス、むかしの旧制三高の脇には、白亜荘がある。ヴォーリズの設計。木造2階建て。大正初期にキリスト教会の寄宿舎として建てられた。百年たったいまも現役。アパートとしてはもちろん古書店、アトリエ、診療所が入居。
一階の三人社をたずねたおり、廊下に本棚をみかけた。入居者もちよりの図書棚・白亜文庫だ。ちなみに三人社は、『戦没学徒 林尹夫日記 わがいのち月明に燃ゆ』で知られる学術出版社(いまは岡﨑公園ちかくに移転)。28号室は桑原武夫が発起人の現代風俗研究会の部室。ドアに人間ポンプのポスターが貼ってあった。幻となった大道芸だ。
かつては営団地下鉄の東大前駅などにも、借り出し勝手の図書コーナーがあった。管理する手間がかかるのだろう。自販機を置いたほうがゼニになると踏んだのか。いつのまにかなくなってしまった。街角の図書棚は、知の毛細血管なのになあ。
スパイは書店にいる
パリの16区には、セントジェームズクラブがある。目玉はライブラリーバー。いまは高級ホテルになっている。会員制。格式の高い社交クラブで、パリ在住の建築家・尾嶋彰さんがネクタイを貸してくれ連れていってくれた。バーの本は装飾品のようで、実際に手にする客はみかけなかった。
尾嶋さんは財産を処分しフランスを引き揚げ、帰国する直前、現地の精神異常者によってパリ郊外で殺害された。「週刊新潮」が「パリの怪事件」と特集を組んだ。
独身の尾嶋さんのアパートメントに1週間、泊めてもらったことがある。本人は仕事で海外にいた。留守中、「寝室もどの部屋も自由につかっていいよ。ワインもよかったら」といってくれるひとは、その後あらわれない。
尾嶋さんが存命ならば、セント・ジェームスにスパイはいましたか、と訊いてみたかった。
東京でスパイはどこに集まるか。『日本を愛したスパイ KBG特派員の東京奮戦記』(コンスタンチン・プレオブラジェンスキー 時事通信社)によると、書店にいるらしい。日本橋の書店の3階の軍事コーナーに、著者の諜報員は日参していた。他国ならば軍事機密に類することも、日本では専門書で公開されている。いわゆるオシントだ。日米安保に批判的な著者も探す。協力者になりえるからだ。別組織の同業者をよくみかけたという。
日本のインテリジェンス機関のまとめ役、内閣情報調査室(ciro)。元室長の大森義夫さんと東京倶楽部(六本木1丁目)で昼食をとったことがある。
「ここはね、東京中のスパイが集まるところなんだよ」と大森さん。
一般社団法人。会員制でメンバーは外国人をふくめ600名。かつては鹿鳴館のなかにあったという。
まわりを見渡すと、老若男女、みなスパイに見える。本棚があったかどうかは記憶にない。
志のある寺、ない寺
「300坪の畑があれば、一家4人が飢えない」と昔からいう。
自宅敷地の大半は、谷戸の日影。畑は10坪ほど。
衣類、米や電力(太陽光発電はしたい。しかし、初期経費が大きく、経年劣化したソーラーパネルの大量廃棄が気にかかる)の自給は無理でも、野菜・果実から、できるところからやってみよう。
ソローの「森の生活」は、ボストン都市圏のコンコード市近郊が舞台だ。
鎌倉でできることはなにか。暮らしを野に近づける「野暮」だ。まずは、拾う=採集生活からはじめよう。
百均の棚から紙箱入りの衣料用洗剤が消えた。600グラム。計量スプーンつき。昨今の物価高、円安だ。100円は無理か。ドラッグストアの特売日に、まっさきになくなるのも洗剤だ。ナショナルブランドも、そうでない製品も、効能に大きな差はないだろう。以前、たまたまドンペリが手に入った。熊野新宮の地酒「太平洋」と一緒に呑んでみた。心地よい酔いは同じだった。アルコールの分子式にかわりはない。
無銭。手づくり・・・そうだ! ムクロジを拾おう。落葉性の高木。本州中部に自然分布する。むかし、実は羽子板の羽根玉や数珠玉につかわれていた。関東地方では寺社や民家に植えられている。
初秋から春先まで、ゆっくりと実を落としてくれる。
鎌倉では鶴岡八幡宮(地元民は「ツルハチ」と略す)東隣の宝戒寺に、老木があったはず。ハゼに似た葉だった。本堂の裏に<銘木 無患子>と案内板があり、たくさん落ちていた。拝観料、大人300円、小学生100円。門前で引き返す。
できるだけ無銭生活者にとって、鎌倉の寺は二分される。そうです。おカネをとるところと、とらないところ。
とらないところの両雄は、光明寺(材木座・浄土宗)と妙本寺(大町・日蓮宗)だろう。
どちらも大伽藍をかまえる。光明寺は極楽浄土を模した記主庭園、庭園のハス池ごしに阿弥陀三尊がちらりと拝める大聖閣・・・。渡り廊下には一服できる長椅子が置かれ、これで、無銭ですか。香華をたむけたくなる。
妙本寺は、小林秀雄が愛した寺だ。広い境内をよく散歩していた。桁、垂木、通し柱と、12間4面の豪壮な木組み。庇下の幕板や控え柱には、彩色された細密な木彫り。・・・祖師堂のコントラストの妙。
階段の下で靴を脱いでいると、「廊下まではそのままでどうぞ」と寺の方。もったいない。天保年間に普請された木目が浮き出た廊下を土足であるくのは、申し訳なく落ち着かない。
祖師堂の三方の廊下は、テニスは無理だが卓球ができるほど広い。夏は昼寝をしたり、本を読んでいるひとを見かける。比企ヶ谷の森にかこまれた静謐な空間が、だれにでも開放されているありがたさ。自然と、こうべが垂れる。
大巧寺(日蓮宗系単立)、本覚寺(日蓮宗)も志が高い。
ともに鎌倉駅から徒歩数分。鎌倉は三方を山に囲まれ、道が狭い。そこに自動車が入り込んでくる。宇沢弘文の『自動車の社会的費用』(岩波新書)をよめば、自動車がいかに安全歩行、健全な環境という市民の基本的権利を侵害し、不可逆的な損失を与えるかが、よくわかる。社会に与える損失にくらべて、クルマの保有者が負担する費用の少なさ・・・。無駄に自家用車には乗らないでおこう。読んだひとなら、そう心を固めるだろう。
大巧寺、本覚寺は、夜間も境内を開放して、通り抜けをゆるしている。門はあるが、閉じない。駅への近道。歩行者、とくに交通弱者である幼児や高齢者が、どれだけ助かっていることか。こと、大巧寺は駅への歩行者専用となっている径の両側に、四季おりおりの草花を植え(名札もついている)、目を楽しませてくれる。菩薩行だ。仏教の真髄、「抜苦与楽」の実践に映る。
福田和也は、『作家の値うち』で現代作家100人をとりあげ、100点満点で採点。手厳しさが物議をかもした。だれか、『京都・奈良・鎌倉 お寺の値うち』を書かないか。
吉祥寺の路上で拾った恋
廊下で思い出したぞ。ミャンマー中部。千塔の街バガン。――実際には3千超の仏塔があるらしい。
ここで、外国人旅行者とはげしく口論したことがある。
ご存じのように、ミャンマーには敬虔な仏教徒が多く住む。藤原新也がどの本だったかに書いている。炎天下、ヤンゴンの露店でひじきカレーをたべているとき、背後に人の気配を感じた。1時間後、ふりむくと、玉の汗をかいた少年ふたりが立っている。「あなた様がお暑いだろうと、日避けになってさしあげているのです」と居合わせた老人。太陽の運行にあわせて、少年たちは微妙に体の位置を変えていた。
ひまだから。経済が停滞し失業しているから。外国人が珍しいから。功徳・積善したいから・・・。どれも完全な答えではないかもしれない。このおもいやりは、どこからくるのだろう。
村々の辻には、素焼きの壺をよく見かけた。だれでも、自由にのめるように、コップが置いてある。コモンズ(公共財)ですね。「みんなのほんばこ」もそうです。「コモンズの拡大」は、無銭暮らしに多大な影響を及ぼすので今後、何回か触れていきたい。
さて、問題は外国人旅行者との口論です。
バガンのアーナンダ―寺院か、シュエサンドー・パゴダだったか。
「please take off your shoes 」と立て札がある寺院だった。青年は回廊に土足であがりこんでおる。アジア人として、仏教国に生まれた者として看過できない。「please」が後押しした。なんて、やさしく控えめな人びとなんだ。命令ではなく、懇願している。
どうして、はだしにならないのか、と訊く。
「トゲのある実がちらばっていて、痛いからだ」
たしかに、まきびしのような実だ。おれも痛い。でもね、礼儀だろう。立て札、見たか。
「でも、靴も靴下もぬぎたくない」
ふてぶてしいやっちゃ。
鎌倉時代、武士は戦場で名乗りが義務付けられていた。おのれの姓名、出自、身分、闘いの意義を大声で述べてから、合戦に入った。
関西人はいまでも、ケンカの前に口上を述べるのが通例だ。代表例をふたつ。
●ええかげんにせいよ。(ここから本番です)けつの穴から手え突っ込んで、奥歯ガタガタいわしたろか!
●もうしんぼうできへん。(同上)頭(どたまと発声してください)、カチ割ってストローで脳みそチューチュー吸うたろか!
このとき、とっさに英訳をかんがえた。
おんしゃ、どこのもんじゃ。(同上)口の奥に腕突っ込んで、しりの穴から腕だして、きんたま、ボリボリ掻いたろか!
青年は、イスラエルから来たという。
こっちは熊野。日本のバスクと呼ぶひともいる。
「イスラエルのどこや」名乗らんかい。
シナイ半島の付け根? 辺境やないか。おれは紀伊半島や。砂漠の果てにも礼儀があるだろう。
青年はひたいを紅潮させながらも馬耳東風。ふん。無視のかまえだった。
あのね、シナゴーグはふつう、携帯電話、カメラの持ち込み禁止。半ズボン、ノースリーブ、膝丈のスカートではまず入れない。ところが、ミャンマーはどうだ。異教徒が自由に見学させてもらえ、撮影できる。昼寝してもいい。カップラーメンの湯を沸かしても苦情は出ないだろう。この寛大さをありがたいと思え。
こちとら最後の捨て台詞は、You can go! (あっちに行け!)。
関西弁だと「行にくされ!」。紀州の言語では「行ね!」。太平洋に大きく突き出した紀州は、もともと海民社会。漁師ことばは日本列島のどこでも短く、敬語に乏しい。波、風の海上で、いかに正確に瞬時に意思疎通できるか。これが生命を左右する。「おひきとりください」なんて、いうひまはない。
青年は、てこでも動かない。こんくらべになってきた。
イスラエルには徴兵制がある。18歳以上の男性は32か月、女性は24か月、一兵卒として兵役に就く。終われば、若者の多くは数か月から1年の長期の海外旅行に出る。兵役のある韓国にも同じうごきがある。イスラエルでは南米やインドが人気。東アジアにもくる。心身の再建や観光が目的であり、世界を回って商機をさぐるビジネス調査のむきもある。
この習慣をイスラエルではなんというのだろう。どなたか、固有名詞を教えてほしい。
中世のイギリス。貴族の若者は学業の集大成として、イタリア、フランスを周遊した。学んだラテン語が実際につかえるのか。そのテストであり、旅先での困苦を克服し、人格形成に磨きをかける好機でもあった。グランドツアー(グランツーリズモ)だ。いまの日本ならば卒業旅行か。
戦前の東亜同文書院(上海)。植民地経営のエリートを養成する大学では、最終学年時に全学生が班に分かれて、2か月から半年、中国大陸、東南アジア全域を探査する「大旅行」があった。昭和19年の敗戦まで44年間つづいた。
大学時代、山登りサークルの友人は、「第1志望、東亜同文書院。第2志望、ハルビン学院。第3志望、建国大学(新京。現長春)。すべて廃校だから、仕方なく早稲田にきた」と公言していた。アホである。
そのかれが、例の慣習で日本にきたイスラエル人女性と恋におちた。出会いは吉祥寺、パルコ前の路上。針金細工のアクセサリー売り。ペンチでお客の名前を英字でかたちどる。1メートル10円の針金が5分間で1000円に化ける錬金術。友人いわく、世界中にユダヤ人のネットワークがあって、都内ならばどこどこの誰それを頼ればいいと、データの蓄積があるらしい。いけば寝床が確保でき、商売道具一式を貸してくれ、場所割りもしてくれる。そして資金をため、日本各地を見て回り、次の国へ旅立っていく。
友人は彼女と結婚。飛騨高山で民芸品店を営んでいたが、いまは商都テルアビブでソフトウエア開発の会社を共同経営している。
バガンの青年も、兵役満了旅行のひとりだったのか。
洗剤の実・ムクロジ
話はふたたび、ムクロジに戻ります。
源氏山の葛原岡神社にも植わっている。漢字で無患子。「子が患うことのないように」。願いがかなうお守りとして、五色の鈴がついて1000円で売られている。
ちなみに、各種のお守りやお札、破魔矢、ステッカー、絵馬、朱印帖など、寺社の授けものは、京都にあるメーカー数社が取り扱っている。分厚いカタログがあって、寺社は、売れ筋の好みのものを名入れで発注する。
だれが、いつ、教祖になっても大丈夫。OEM(他社ブランドでの製品製造)のさきがけだ。京都はいつの時代も、新しいものを送り出してくれる。
そのひとつ、西陣の京都奉製㈱のホームページをみれば・・・。
「上記ページは神社様・寺院様向けの専用ページとなっております。一般ユーザーのみなさまの閲覧はご遠慮いただきますようお願いいたします」。原価がわかってしまうからか。同社は伊勢神宮を筆頭に全国5300の神社仏閣をお得意様としている。
わが産土神、葛原岡神社は、ムクロジのお守りを自分たちでつくっているのかな。近代の哀しみは分業化にあるんだけどなあ(第1回ご参照)。
そんな思案をしつつ、さっそく、桔梗山でひろったムクロジの果皮をめくる。茶褐色の果皮はつややかで、膠や牛脂を連想させる。
果肉がついた果皮をざるにあつめて、天日干しすること4日間。乾燥させた果皮に水を加えて力いっぱいふると、泡がわいてくる。かすかに白濁した液を布やコーヒーのフィルターで濾し、ペットボトルで保存する。
液体には、天然界面活性成分のサポニンが多くふくまれる。殺菌作用もあるらしい。英名はsoapberry、washnut。エゴノキ、サイカチと同じように奈良時代から、洗髪・洗濯につかわれてきた。
汚れの落ちは・・・柔軟剤が入っていない分、ごわごわ感が残るが、化学洗剤とさして変わりはない。作業着や靴下を洗うには十分だ。水を足せば再び泡立つ。1リットルで容量60リットルの洗濯機5回分の洗濯ができる。
見くだされる悦び
落穂拾い。活字拾い。鉄くず拾い・・・。近代デジタル社会になって、拾うという行為は激減した。
「拾う」は、意識に変化をもたらす。背をかがめると、まず視線が低くなる。
カヌーとおなじだ。映る世界ががらっと変わる。野田知佑さんのいうとおりだ。水面から1メートル弱。川からの眺めは広く低くひろがる。茶室の躙り口とおなじ作用をもたらすのだろう。「カヌーは水上の禅である」と、野田さんの『カヌー式生活』の帯にある。
前回ご紹介の竹細工師・稲垣尚友さんは、「見くだされる悦び」を強調していた。尚さんは、自作のザル、箕、カゴを京成津田沼駅の路上に座り込んで売っていた。通行人が物珍しそうに可哀そうにと目を向け、警官が誰何する。親子づれは「勉強しないと、ああなるのよ」といっているのか、意味ありげにうなづきあう。
「見おろされるって、いいんだよなあ」と尚さん。
下々意識の植え付けに、躍起の時代があった。
戦意高揚のプロパガンダ広告は、多くが対象を見上げるようにデザインされている。政党や宗教団体のポスターも、このスタイルが多い。
典型をふたつ。ひとつは、スターリン統治期の雑誌「USSR建設」から。片側のページに大きくスターリンとゴーリキー。対向のページに最新鋭の大型旅客機ゴーリキー号(ANT-20)を仰ぎ見る少数民族。『どん底』の作家が見上げられていいのか。そして、いつのまにか民衆に刷り込まれる独裁者・英雄崇拝の意識。
もうひとつは、内閣情報局のポスター。アジア太平洋戦争下の敵国スパイ摘発のすすめ。ロシア・アバンギャルドの遠近法を援用。斬新で大胆な構図。ふるびていない。この時期、デザイナーでは亀倉雄策や原弘、写真家では土門拳、木村伊平衛、入江泰吉など戦後、活躍する人びとが政府、陸海軍の「聖戦遂行」に協力していた。
神戸、芦屋、西宮、横浜、ロス、ローマ、ブダペスト・・・。ほぼ世界中、高級住宅地は高台に発達する。スラム街は低地に集中。例外は南米ボリビアの首都・ラパスくらいか。アンデス山脈の峡谷盆地。標高3500メートル超。空気が薄い。すり鉢状の地形で、富裕層は競って、すり鉢の底をめざす。酸素が濃いからだ。低所得層は700メートル上のすり鉢のふちに追いやられる。
武蔵野台地の最南端、舌状の永田台地にある国会議事堂。ラパス同様、すり鉢状の本会議場。衆参院とも、自民党は上方の席に幹部たち領袖クラスが陣取り、下方の席に若手議員が当選回数の順にすわる。
すり鉢の上にいた森下元晴さんに、所有する山林をご案内いただいたことがある。衆院当選8回。厚生大臣、中曾根派の事務総長をつとめた。生家は代々、林業を営み、東京高等農林学校(現・東京農工大学)に学んだ。議員時代も選挙区の徳島にかえるたび、山林を見て回った。政界を引退後は徳島県海陽町に戻り、生家(町なかのごく普通の民家)にひとり暮らし。親族が近所にお住まいだった。
かつて、林業が活況だった昭和40年代。議事堂の国対委員会室から降りしきる雨を眺めていると、同僚議員からポンと肩を叩かれた。「森下さんはええですなあ。ひと雨ごとに、持ち山の樹々がみしみし太っていきますのう」と。
作業ズボンに地下足袋。首にタオル。当時、森下さんは70代後半。山肌に這いつくばり、両手をつかって急斜面を登っていく。おそらく視線は、虫やミミズと同じだ。
鎌倉・海蔵寺。ひっそりと清水甚吉の句碑が立っている。
詫び住めバ 八方の蟲 四方の露
戦車(街宣車のこと。自民党用語)のルーフ上から、地べたまで。いくつもの視座をもつ。こういう人物がいる政党はふところが深く、タフなのだろう。
ギンナンの教え
真夏の浄智寺参道。強風の吹いた翌日。地べたの青い実を目にするたびに、厳粛な心もちになる。虚を突かれた気分だ。
――もう秋の準備をしている。おまえは、どうなんだ。
真冬にビワの白い花をみても同じ思いをいだく。時はすぎていく。うかうかしていられないぞ。
9月も後半にはいると、あちこちのお寺、神社でギンナンが拾える。みなさん、それぞれに、ひいきの木がある。わたしは、材木座のの元八幡(ツルハチの租。頼朝がここから現在地に遷座)が、長谷の甘縄神明社へ。
ギンナンでかぶれることがある。果肉をはがすには、ひと晩、バケツの水につけ、ふやけたところをゴム手袋をして、一気に。土にうめて半月後、タネだけ取り出すという手もある。
ギンナンはフライパンで炒るとぱんぱんとはぜて、飛び出ようとする。いちばんかんたんな食べ方は・・・紙袋にいれて、しっかり口を閉じて電子レンジで2分ほど加熱。
かるく塩をふって、ビール、日本酒のアテに。ワインにも合う。ギンナンがあれば、秋の肴は十分だ。
シイの実は照葉樹林文化圏のおやつ
シイの実は縄文人の常食であり、熊野の人びとのソウルフードだ。紀伊山地の山塊が太平洋におし迫り、水田がネコ、いやネズミのひたいほどにもない熊野では、太古から五穀に頼れない暮らしをしてきた。
マテバシイ、スダシイ、クスノキ、タブ、ツバキ、ヤマモモ・・・。陽光をはねかえし、つややかな葉を年中、茂らせる照葉樹の林。ウバメガシは備長炭の原料。海岸線に好んで生え、和歌山県の県の木だ。
中世に熊野信仰が東北地方に濃く伝播したのは、常緑の樹々にたいする憧れが一大要因。そんな説がある。冬枯れの野がひろがる東北から、温暖・湿潤な熊野にきてみれば常春。ここぞ、常世と感じたことだろう。謡曲の「常世の木の実」とはタチバナらしい。
<木の国の熊野の人は かし粉くて このみの山ずま居>
佐藤春夫の祖祖父、佐藤椿山の狂歌「木挽長歌」の冒頭。江戸後期の作だ。
かし粉くて(樫粉食うて)は賢くて、このみは木の実と着のままを掛けている。
熊野の山びとは、近年まで採集生活がみじかなものだった。
新宮の小学生の時分は、級友たちと神倉山で拾いあつめた。ドングリとちがってアクがなく、その場で生でたべられる。果肉は淡い乳白色で、舌先に脂分を感じ、食べ飽きない。家に持ちかえれば、祖母が焙烙で炒ってくれた。
「土佐相撲の観客はぽりぽり、シイの実を始終たべていると明治の文献に出てきます。よそからきたひとには珍しい風習だったようです」
在野の民俗研究者・筒井功さんも、高知の子ども時代、おやつ代わりによく口にしたという。
黒潮文化圏に生まれた者の定めかもしれない。
港区では、シロガネーゼの怪しむ視線を感じつつ、自然教育園から歩道にこぼれ落ちた実を拾った。
新宿区に住んでいたときは、近所の牛込弁天公園に通った。若狭小浜藩邸の址。藩医の杉田玄白が見上げたであろうシイの木が築山に植わっている。しゃがんでいると「なにしてんの?」とはいわないが、居合わせた小学生たちが寄るともなく寄ってくる。
この木の実、たべられるよ。前歯で殻を割ってみせる。ひとつ、どうぞ。
いやいやと首をふる派。おそるおそるでも口にいれてみる派。いつの時代も、未知のたべものに対応は分かれる。
小学生たちは、いまもシイの実をたべているかなあ。
南洋でヤシの比重は、縄文時代のシイ、いまのイネに匹敵するだろう。
ニューギニアのニューブリテン島に2週間いたことがある。船ばたから海中に吊るしたヤシの殻をしゃかしゃかと鳴らす。エサの魚がいると勘違いしたサメを誘き出して捕るシャーク・コーリング漁。門田修さんに頼んで海工房の撮影に同行させてもらった。しかし、どの日も一匹も捕れず。
ひまにまかせて毎夕、村の子どもたちに「六甲おろし」を教えた。新しい日本国歌だ、覚えておいて損はないといって。
そういえば2年前・・・早稲田大学の新入生歓迎の行事だった。大隈公の銅像の前で、応援部の口上は、「いまや、第二の国歌といっても過言ではない校歌。それっ!」。
ヤシ林にこだまする「おーおーおー、阪神タイガース ふれ、ふれ、ふれー!」。今も子どもたちは歌っているだろうか。
(文中、ときに敬称略)
著者プロフィール
和賀正樹(わが・まさき)
和歌山県新宮市のうまれ、そだち。早稲田大学教育学部卒。文藝春秋に入社。雑誌、書籍の編集者を長年するも、ベストセラーとは無縁。旅先のスリランカで「タミールイーラム解放の虎」、中国で長春市警察により身柄拘束をうける。ただいま神奈川大学国際日本学部で非常勤講師を務めるも不人気で、閉講を思案中。著書に『ダムで沈む村を歩く 中国山地の民俗誌』(はる書房)、『大道商人のアジア』(小学館)、『熊野・被差別ブルース 田畑稔と中上健次のいた路地よ』『これが帝国日本の戦争だ』(ともに現代書館)。